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2016 年

■ 10月13日(月) 沢屋天国宮城と沢屋王国山形

最近ご無沙汰している沢登りなのだが、今シーズン久しぶりに二口の小松原沢を訪れた。42年前地下度足袋の出で立ちで最初に訪れたのがこの沢だが、何度訪れても良い沢だと実感する。

二口特有の美しい岩床と滑滝が連続した後、適度なゴルジュの先にはお手頃な滝が出てきて楽しく、上流部にかけては狭いが40m程の3〜4段ほどの大滝が登場して緊張感もあり、最後は美しいブナ林の源頭を詰めて稜線に至る。日帰りコースの短い沢だが沢登りの要素が凝縮され、比較的手軽で快適に沢登りを楽しめるお勧めのコースだ。

仙台に住んでいると余り気が付かないのだが、沢屋にとって全國的にも恵まれたポジションにいると実感する。一時首都圏の山岳会に在籍していた事もあるがが、夜行日帰りをしようと思えば2:00頃現地に到着し、3時間の仮眠をとって早朝の出発で遡行を始め、夕方に登山を終了すると自宅への帰着は12:00PM以降という有り様。

それと比べ、仙台を起点にすれば二口・船形・蔵王・栗駒・虎毛・神室は殆どが日帰り又は夜行日帰りの遡行が可能で、初心者〜中級・神室などの上級レベルの沢と選べるエリアが広く、それぞれの山域の特徴が異なる沢の世界が広がる。

山屋の世界に飛び込んだ40年ほど前の仙台では社会人山岳会の山行の主体は沢登りと冬山で、入会すると二口に連れて行れて沢デビューを果たすのが定石で、それぞれ会の志向により対象となる山域は異なってくる。特に沢専の会ではないが沢のスペシャリストが多数存在し、わずかに残された開拓的な志向を持ちながら精力的に活動していた。ただ、アルパイン志向の強かった自分のように沢登りに名を借りた宴会遡行の愛好者も多かった。

その後沢屋人口は次第に少なると共に山岳会が衰退期に入り、登山学校的な役割を果たす使命が失われてしまい、連続した世代交代が断ち切られてしまった。特に、飯豊・朝日などの上級レベルあるいはエキスパートを目指す空気が失われ、層が薄くなって全体的なレベルは当然下がってゆく結果となる。

時代の変化と共に登山の形態も変化・多様化し、フリークライミングが大きな潮流となった事以外に、自転車・カヌーなどもクロスオーバーする世界となった。かつての沢屋といえば、汚い・きつい・危険という山屋3Kの代名詞で、身なりは薄汚れて貧乏臭く酒好きでうるさいというのが通り相場で、そのくせ内心プライドは高くひねくれ者も多かった。

しかし、最近の事情はえらく異なり、最先端の装備とファッショナブルなファッションで身を固め、沢の中がまるで明るくなったかの様な変遷を遂げ、少しづつでも沢を目指し方が増えて来たのは嬉しい気もする。

この中から飯豊・朝日の困難な沢を目指す方も再び現れるのか興味深く、せっかく身近に存在する沢王国の山形の恵まれた環境に目を向けて頂きたいと思う。深い雪渓に埋め尽くされた深いV字谷は急峻なスラブと難儀な草付きの突破が必須で、短い沢でも楽して突破させてもらえる沢は少い。また、秋まで残る不安定な雪渓は遡行をより困難なものとし、時としては果てしない高巻きを強いられる技術・体力・経験がモノを言う世界だ。

あまりグレードの高い沢はやっていないので言えた身分ではないが、自分ももっと早くこの魅力に気がついていれば別の山屋人生を送っていたかも知れない。

2013 年


■ 4月13日(月)  銀嶺に向かって歌え - クライマ−小川登喜男伝
 

「行為なくして山はない。情熱無くしてはいかなる偉大なことも起こりえない。山に行く情熱は、山に行くことのうち純化されるだろう。」(東北帝大山岳部ルーム日誌より)

小川登喜男(1908〜1946)東京浅草の生まれ。旧制東京高等学校在学中より登山を始め、東北帝大山岳部(1928〜1931在籍)では、草創期のスキー登山によって蔵王、船形山、吾妻連峰、八幡平など東北各地の山で活躍、更に東京帝大山岳部(1931〜1934在籍)では、谷川岳一ノ倉沢や幽ノ沢、穂高屏風岩、劔岳の雪稜を初登攀した、昭和初年代を代表する天才クライマー。

登山史ではその名のみ高い小川だが殆ど山行記録を残さず、また肺結核で早逝したこともあって、登山の内実や人物については殆ど知られていない、“伝説の”“孤高の”と呼び慣わせるゆえんである。

著者はたまたま、東北大学山岳部の部室に遺されていた日誌を目にする機会を得て、そこに小川の生々しい肉筆を発見する。部室や蔵王小屋に集う岳友達との交情、山行報告、思惑と随想、帝大生達の青春、登山がロマンであった時代。

日誌を元に、関係者の証言や希少な文献を精査して、小川登喜男という稀有の登山家の肖像を初めて明かした力作評伝。(ブックカバーの書評より)

\2.950もする単行本を買ったのは久しぶりだが、今まで知られてい無かった小川登喜男の実像に接して一気に読んでしまった。内容が新鮮で、80年以上も前の伝説のクライマーの登攀への情熱と、クライミングのパイオニアとしての存在感の大きさを物語る本で、日本の登山史としても価値の高い評伝だと思います。

口数が少なく検挙で寡黙な方だったようですが、東北帝大を卒業後東京帝大の哲学科に再入学したほどの自身が哲学者でもあり、登山の実践と共にアルピニズムの追求とロマンを追い求めた青春と言えます。東京帝大山岳部在籍の頃から、谷川岳や補高の夏・冬と通した開拓時期は1931年〜33年の3年間に集中され、その驚くべき山行と集中力には眼を見張るものがある。当時は、22歳〜26歳位の若い年代だった。

今とは比べ物にならない様な粗末な装備や登攀具を駆使し、その殆どがワンディもしくは積極的なビバークによって攻略されている。ヒマラヤを目指した様な極地法は京都大学学士山岳会の白頭山遠征が1935年で最初とされていますが、それ以前のワンチャンスを狙っての一発勝負、つまり、アルパインスタイルの原点だった様に思われます。

特に興味深い点は、アプローチには粗末なスキーとアザラシシールを使って取り付き点付近に達し、登攀終了後には一気に下降してくるスタイルだ。クライミングとスキーがベストマッチした山行が多く、大きな成果をもたらすと共に生還へ繋がったのでは無いかと思います。

谷川岳の一ノ倉沢 3ルンゼ・4ルンゼ・奥壁南陵・衝立岩中央稜、幽ノ沢 左俣2ルンゼ・右俣リンネ、マチガ沢おきの耳南東稜、穂高 屏風岩1ルンゼ・2ルンゼ、明神岳5峰東壁リンネなど、今でも日本の代表的なクラッシックルートとなっている。

冬季の12月〜1月に西穂・前穂・奥穂周辺のバリエーションルートを数多く開き、4月頃には剣岳の八ツ峰や源次郎尾根に単独も含めて足跡を残している。

自分は唯一穂高の屏風岩1ルンゼをかつて登った事があるが、核心部の狭いルンゼの高さ2〜3mのチョックストーンのようなハングに阻まれ、難儀してA0かA1で越えた記憶があるが、小川登喜男は1本のハーケンも打たなかった事は良く知られている。

このような燃えるような情熱と集中力は一体どこからもたらされるのか?一度登ったルートを再登する事は少なく、次々とより困難な新ルートを追い求める開拓者魂がまさり、他の追従を許すことのない若きクライマーとして成長してゆく。

しかし、残念なことに社会人となってから工場で指に負傷を負い、その後クライミングからは遠ざかってしまい、41歳の若さで肺結核のため激しい登山人生に別れを告げている。

本の前編は東北帝大在籍の頃の記録で、蔵王・吾妻・船形山を中心とした山スキーの記録で、仙台の山屋にも親しみ易く登山史上の貴重な記録でも有り、後編は本題のクライマーのパイオニアとしての歴史が綴られている。

【関連ブログ】 東北アルパインスキー日誌ブログ

2010 年


■ 9月13日(月)  定禅寺ジャズフェスティバルと山との関係 


ナムチェバザール(ネパール)のシェルパの自宅の前で 1976年1月
    (真中が佐々木氏 左はシェルパよりみすぼらしい自分)


日曜日の3:00PMから1時間半の仕事というのは、実に中途半端な休日の過ごし方になって実に悔しい。まあ、どうせ雨模様だったので諦めもついたが、最近このパターンが多くなって山には行けずじまいの日々。

そこで、午前中に田舎の雑用をやっつけて仙台に戻り、適当に仕事を片付けてやって来たのが定禅寺ストリートジャズフェスティバル の会場。行ってみると、二日目の夕方でも勾当台公園には人があふれ、今にも雨が降りそうな気配でも熱気があふれていた。

仙台市中心部一帯をステージに音楽が街にあふれ出す「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」が11、12日に開催されたが、今年は1991年の第1回から数えて20回目の節目の年。過去最多の750バンドを超える出演があり、今や日本のみならず世界でも名が知れる一大イベントになっている。

最後のフィナーレは生憎の雨にたたられ、新参者の自分は途中から帰宅したが、雨傘をさしたままでも楽しんでいる根強いファンはあまり気にもとめない様子。25年程前の古い話ですが、読売ランドで行われたライヴアンダーザスカイでも、大雨にたたかれながらマイルス・ディビスのトランペットに酔いしれた時の事を思い出した。

ここで自慢話になりますが、長年にわたって実行委員長を務める佐々木和夫氏とは昔の山仲間で、今でも年に1度ほどは酒を酌み交わす仲なのです。まだ学生の頃最初のヒマラヤ登山に同行したのが始まりで、登山終了後は二人で現地に居残りを続け、登頂失敗のうっ憤晴らしの様な気ままな放浪の旅を続けた。その間、インド・バングラデッシュ・パキスタン・アフガニスタンなど9ヶ月間貧乏な旅人をやってました。

所属山岳会は違って自分より7つ年上の先輩ですが、その風貌は豊富な顎鬚を蓄えて意外と顔の彫も深く、海外では帽子を被ればモスリムにも見え、またある時には現地に同化したネパーリィーにも見える。温和で人当たりは良くて敵を作ることなど有り得ないような人柄で、日本人はもちろん語学力は抜群でどんな外国人でも意思疎通ができそうな方でもある。

しかし、本人が言っているように、「楽器はできないし、音痴だから歌うのは嫌い。音楽を聞くのも人並みに好きな程度」という、まったく予想外なところに本人の能力と適正を発揮する所が興味深いのです。確かに、1年間程海外で行動を共にしたが、JAZZの話はもちろん音楽についての話題の記憶はありません。

今では芸術文化都市としての認知度を世界的に押し上げ、仙台のステータスを高めた貢献度は計り知れないものがあります。しかも、長年にわたって維持して更に成長を続ける所が素晴らしいと思います。やはり皆さんの高い志はもちろんのこと、熱意と強い仲間意識が大きな組織を支えているのでしょうか。

今や仙台を代表するように著名な方ですが、これからも更なるご活躍をお祈りいたします。


※東ネパール〜クンブ地方トレッキング(ネパール) 1975〜76年


■ 8月30日(土)  二口 翆雲荘事件
 

先日、36年ぶりに訪れた二口の小松原沢だが、翆雲荘を通過しなかったのは残念だった。この木造平屋の古い建物は、かつてブナ林が伐採されていた頃の営林署の小屋で、今でも登山者には解放されている。当時は小屋近くまで車の乗り入れが可能で、山屋連中の宴会場としても利用価値が高かった。

当時所属していた山岳会は仙台では珍しい個人山行主体の会だが、2か月に1回の定例山行と11月の富士山雪訓が数少ない会の行事で、目的の大半が宴会にある事は常識だった。当然酒が入れはボルテージは上がる一方で、一升ビンが何本か空になる朝方まで騒いでいるメンツが必ずいた。

ここで悲惨なめにあったのはたまたま一緒になってしまった登山者で、その雰囲気には文句の一つも言えず眠ったふりをするしかないのだ。言わばまったく座敷牢状態で、その牢名主は大体我々が務めていた。何時から小屋の消灯時間が決まったか知らないが、その当時は声のでかいやつがこの世を制していた。

そこで登場するのがS氏&T氏で、当初は陽気に騒いでいるだけだったが、自分が酔いつぶれて寝込んだ後の深夜、突然の物音に目が覚めてしまった。「コノヤロー!」「テメー!」という大声と、顔面にヒットするパンチの音。途中で何発かの蹴りが入った模様で、「表に出ろ!」とどこかの三流ヤクザ映画のセリフが実にチープだった。

片方のT氏は80kg位はある巨漢で、一人で乗用車を持ち上げて移動したのを見た者がいる。手の平はまるでグローブの様な大きさで、まともにパンチを食らったらただでは済まないだろう。

一方のS氏はというと、細身の体でチョップや回し蹴りが素早く、結構見栄えのするいい勝負だった。決して人柄は悪くはないのだが、何かと人にけしかけて挑発する癖があり、過去にも定例山行で同じ様な対局があったらしい。

ここで災難を被ったのは地元大学のワンゲル部の皆さんで、その勢いに圧倒されてかシュラフから出られない状態で、只々無言の状態で実にお気の毒だった。結局、場外乱闘の結果はドローとなり、ぶち抜かれた板戸がそのすさまじさを物語っていた。

翌朝は二人とも顔に青タンを作って腫れ上がっていたが、何事もなかった様な雰囲気で朝飯を済ませ、特におめでたいS氏は殆ど記憶が無い様だった。結局、沢の中でもどしながらも小松原沢を登り切って南沢を下降し、何時もの様に仙台に帰って行った。

※なお、お断りしておきますが、私たちは決して極左・極右の暴力集団ではなく、この点を除けば善良な市民です。 しかしこの二人、33年も経った後のOB忘年会で、まったく同じ事を繰り返すのでした。

ここで被害に会われた皆様方には深くお詫び申し上げます。今頃遅いですが・・・。


■ 6月12日(土)  仙台の某所 某橋の下

こんな天気の良い日に家の中で雑用の為腐っています。日曜日に部屋に閉じこもっている事などめったにないが、残り時間が無くてあせった結果の鬱陶しい1日です。

ちょっとした息抜きにと思って最近買ったチャリで出かけ、広瀬川のサイクリングロードを気持ち良くこいで行くと、以前住んでいたアパート傍の橋の下を通りかかった。

そこにはまずい記憶があってあまり他人に話した事はありませんが、「器物損壊?」の罪に問われかねない遺物が残っているのです。こんな事を書いて良いのか解りませんが・・・。

もう35年以上も前の学生時代、アルパインクライミングを目指していた頃、今や博物館入りした「人工登攀」にのめり込んでいました。

「人工登攀?」なんて言っても知っている人はあまりいないでしょうが、ご存知の方きっとは50〜60歳位の方御同輩位でしょう。

つまり、ボルト・ハーケンの使用は無制限で、日本中、どんな壁でもルートになってしまうというとも言える、今となっては実におぞましいクライミングのスタイルでした。何しろ、フリークライミングの概念など皆無の頃でしたから。

実は、橋の橋脚に6本のリングボルトを打ち込んだのは自分で、その後35年以上もたってしまった訳ですが、なぜかその後撤去もされず、そのまま残っていたのが意外だった。

人目を忍んで朝方にジャンピングで穴を空けたが、国土交通省の物件は実にクォリティーが高く、コンクリートの圧縮強度は安山岩並み。結局、天井面には1本打ち込むのが精一杯でだった。こんなアホな事をやっていたヒマ人だったが、それでも、その直後に黒伏山南壁に一本のルートを開けたのは思い出深い。

今となっては「時効物件?」となるんでしょうが、関係者の方にはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。橋脚は最近に耐震改修が行われた様だが、どうせなら昔の傷跡は全て撤去して欲しかったですが、心の一部では嬉しさ半分と言うところです。


■ 3月24日(水)  ウイリッシュの亡霊

今、手元に知人から売却を依頼されたピッケルがある。
R.WILLISCH&Sohne銘の穴明きタイプ。ヘッド長29.5cm、全長75cm。このピッケルはウイリッシュ2代目3代目合作の穴明きタイプだが、実はいくらでも良いから売却して欲しいと、知人から依頼を受けた物だった。

この「いくらでも良いから」というのが実は曲者で、本音は4万円ほどの値踏みをした上での売却依頼だと思った。噂によればヤフーオークションで4万円の値が付いたという話も有るが、実際国産カドタのピッケルが2.5万の値が付いており、まんざらホラ話でも無い様にも思える。年代の古い山ノ内ピッケルには47万?の値が付いていた。(本当に買う人の顔を見たい)

このピッケルは仙台のYYKという某アウトドアショップで店ざらしにされていた物だが、不景気な仙台では誰も食指を動かす人など無く、まったく相手にされずに売れ残っていた。そうなったらやはりヤフオクしかない。

自分でヤフオクはやらないので知識は無いが、その道に詳しい知人がいるので転売の依頼はどうか?ノウハウが有れば4万どころか6万くらいにはなるかも?別に手間賃など要らないが、いくらで売れるのかが興味深い。

しかし、手にとって見たピッケルは未使用の美品で、ウッドシャフトはアマニ油で丹念に磨き上げたキズ無しの一品。ブレードは美しい曲線美と輝きを備え、貴婦人のような気品とステータスを感じさせ、国産のピッケルとは違った美術的価値が漂う。

現在でも鍛造で年間100本ほど生産されている様だが、現在の27.0cmブレードと比べ30.0cmと長く、1980年初め頃のやや古いピッケルだ。ちなみに好日山荘のweb shopでは新品で6.2万と表示されている。いったい誰が買うのか不思議ですが・・・。

もともと山道具については余りこだわりは無い方で、機能的で使い勝手が良く、長く使い続けられる物なら1アイテム1品で満足で、最先端の機能やブランドにこだわる方ではない。なおさら骨董的趣味は皆無だ。でも、手にして1週間も見続けていると不思議なもので、何となく手放したくなくなるのが自分でも意外だった。

古い話で恐縮ですが、実は以前いい加減な某登山用品の輸入商社に在籍していた事があり、ウダツの上がらない営業マンをやっていました。その会社はウイリッシュの輸入総代理店(と言っても年間15本程度)で、I○Iスポーツにせっせと納めていました。

しかし、シャフトのちょっとしたキズや変色で返品をくらい、5本のピッケルが不良在庫となって倉庫に残っていた。1年もするとなんと廃棄処分の対象とされ、若い営業のアンチャンがやって来て、思いっきり蹴りを入れてシャフトをへし折ってしまった。ちなみに彼はアウトドア大好き人間だが、登山にはまったく興味の無い輩でした。あの前に2〜3本を営業マン在庫にしておけばと今でも悔やんでおります。

結局自分はその後退職し、6年後にはその会社も姿を消してしまいました。こんな会社では当然の末路だった。

キズ一つ無い美品


ウイリッシュの刻印



■ 1月8日(金)  蔵王連峰の雪崩エリアについて

今シーズンの初めには暖冬傾向とされてましたが、蓋を開けてみれば年末年始からの寒気が流入して北陸・東北では大雪となり、快適なパウダースキーを目論んだ山スキーやテレマーカーはすっかり予定が狂ってしまった。

雪不足の年末年始と比べればまだましな方だが、山の玄関口で登山を中止して派手な新年会になった方も多いのではないでしょうか?シーズン最初としては出鼻を挫かれた感じでしょう。

北アルプスと比べて標高が低く、北海道より緯度が低い南東北の山は極上パウダーに恵まれるチャンスは少なく、12月末から2月上旬位がベストシーズンと思える。
しかし、日本海側の月山・鳥海山・飯豊・朝日連峰はもちろん、ジェット気流の中心部が通り易いといわれる蔵王連峰は毎度の悪天候に見舞われ、中々そのチャンスは巡ってこない。

最近はこの付き合いきれない悪天候愛想をつかし、蔵王連峰東面の北屏風東壁や南屏風のコガ沢は足が遠のいてしまった。特に風の強さは半端なものではなく、全く情け容赦のない仕打ちに自ずと月山に足が向いてしまう。月山だったら諦めてツリーランで気を紛らせる事もできる。

しかし、蔵王東面のルンゼも好天に恵まれれば素晴らしいパウダーコースとなり、エクストリーム的な要素を持った南東北を代表するエリアとなる。比較的アプローチにも恵まれ、最近はボーダー・テレマーカーの皆さんも訪れている。

しかし、忘れてならないのが雪崩への警戒心であり、雪崩の通過コースの事前認識も怠ってはならない。最近はビーコン・スコップ・プローブの携帯が常識となっていますが、道具は使いこなしてこそ初めて機能し、机上講習と訓練を積み重ねたと言って実践で即役に立つとは限らない。実体験だけは御免こうむりたいので訓練には限度があり、また、自然の脅威は人間の理解を超える事も有りえる。

自分では幸い本格的な雪崩に遭遇した事はないが、雪崩についての十分な知識を持ち合わせている訳でもない。むしろ初心にかえって基礎から学びたい気持ちもある。雪崩と天候に関する正しい知識と観察力、そして人間の力の及ばない自然の脅威と時の運が全てを支配する。

また、講習とか訓練は重要だがそれ自体が目的化し、活動の範囲を自ら狭めて山行計画が萎縮したり、必要以上にただ恐れる事態も避けたい。大切な事は知識や観察力の習得と共に、フィールドでの実体験と経験を積み重ねる事だと思う。天候や雪の状況判断などは他人任せで決して身に付くものではなく、自分で努力しないと成果は上がらないだろう。


【蔵王東面の雪崩エリアの一部について】

通い慣れた蔵王の東面で観察された画像ですが、今後このエリアを訪れる方には参考にして頂きたいと思います。但し、天候・積雪量によって状況は多様に変化すると思われますので、画像は全体の一コマであり全てでは有りません。



@2005年3月6日 蔵王連峰東面 北屏風東壁の雪崩れ


北屏風(屏風山)に突き上げる雪稜の両側のルンゼが雪崩れ、左側の斜面(コース02)は東壁の基部までデブリが達しています。また、右の斜面(コース01)は山頂付近から雪崩が発生したという報告が有ります。



A2006年1月29日 蔵王連峰東面 コガ沢の雪崩れ 

南屏風から北屏風にかけての鞍部には1月頃に大きな雪庇が発達し易く、大きく成長して重さに耐えかね時、毎年1月下旬から2月上旬にかけてコガ沢に大きく崩壊している。デブリはコガ沢まで達する大規模な雪崩で、これによってコガ沢の滝壺が埋まります。



B2009年2月11日 蔵王連峰東面 お釜斜面の雪崩

五色岳山頂から馬の背稜線側の斜面を撮影した画像ですが、稜線直下から全面雪崩が発生し、基部にデブリが堆積しています。通常馬の背を歩いている時は見る事は出来ませんが、降雪直後には時々雪崩が発生している可能性が有り、お釜斜面を滑る際には慎重な判断が必要です。



C2009年1月16日 蔵王連峰 丸山沢ボール斜面のノドの部分

熊野岳山頂から滑り込んだ最初の斜面カラ滝付近。早い時期に大きな雪崩が発生していると思われます。

なお、冬山を目指す方スキーヤー・登山者は雪崩跡を目撃するケースが有り、雪崩の画像又は情報が有れば積極的に公開して頂きたいと思います。より多くのデーターを集約して情報を共有し、積極的に活用する事でリスクの低減を図り、事故防止へと繋がれば何よりと思います。

2009年


■ 12月7日(月)  今年も暖冬の噂なら

鳥海山 湯の台コース 2007.01.01

今シーズンも11月に月山の山頂に立てたのはラッキーだったが、しかし山スキーヤーにとってはその後が今ひとつパットしない雰囲気。何時も12月になれば月山は悪天候が続き、タイムリーに週末のワンチャンスを狙うとなると難しい。山頂方面はほぼ絶望的なのが当たり前だが。

しかし、何となくふがい無い冬型の気圧配置にはがっかりで、全国的にも気の早いスキーヤーでさえ楽しそうな知らせはいまだに聞かない。立山方面でも何となく雪は少ない模様で、あの乗鞍岳方面でも山頂から藪スキーとは、いったい山スキーをしたいなら何処に行けば良いのか!と言いたい。

おそらく今週末にはある程度の積雪が期待できて、天候にさえ恵まれれば山スキーヤーは色めき立つだろうが、その先がどうなっているのか少し不安にもなる。余り強烈な寒気団が南下しそうも無いので・・・。

でも、物は考えようで、こんな暖冬のときにしかチャンスの訪れない山域もある。どんなに暖冬とはいえ、積雪に不自由したとは聞た事が無い月山と鳥海山は、厳冬期には殆ど山スキーの対象とならないが、この時可能性が広がりチャンスが訪れる。

実際、厳冬期の鳥海山で晴れるのは月にほんの数日で、まして1日中山頂が姿を現す日は極端に少なく、シーズン中でもチャンスは稀にしかやって来ない。しかし、可能性が少ないだけに成功した時の価値と感動は大きい。

ちなみに、昨年出版された「忘れがたい山」池田昭二氏によれば、生涯を通じて鳥海山に夏冬通しで760回ほど通っている方ですが、正月近辺で山頂にたったのは3〜4回のみで、厳冬期の山行の殆どは敗退山行の連続であったとある。ましてや、元旦登頂となると1回のみだそうです。

私は幸いにも2007年の1月1日に七高山に登頂出来たが、これこそまさに罰当たり的なまぐれの山行だった。今思えば、あの時新山に登頂しなかったのが悔やまれる。

しかし、まぐれと言えども運も山屋の見方。つまり、やってみないと分からない。そうなると、いつかは厳冬期のパウダー斜面を1本決めてみたいもの。出来て当たり前の山行と比べ、出来るかどうか分からない時の成功の方が遥かに印象深い。

こんな話に興味を持つ人も少ないでしょうが、勝手に思いを巡らすのも楽しみの内で、実現しなくてもその思いは中々消えない。ホラ話で終わっても良し。

特に、好き勝手に創造できるのが山スキーの魅力で、何時までも飽きずに山スキーから離れられなくなる。今までも現役のつもりになってしまう。

鳥海山 湯の台コース 2007.01.01 

http://f58.aaa.livedoor.jp/~yamadori/yunodai%202007.01.html



■ 7月29日(月)  剣岳・点の記を観る

本日は午前中30分だけの仕事が入るという、山屋にとっては実に中途半端でストレスの溜まる事おびただしい1日だった。午後から雁戸山辺りの山歩きも考えたが、早朝からスタートダッシュしないと完全燃焼しない様な気もして取り止め、気になっていた「剣岳・点の記」を観る為にチャリで出かけた。

映画を見るのはアニメを見せる為幼稚園の子供を連れて行ったのが最後で、いつもはレンタルビデオ三昧の自分にとっては17年ぶりの珍事でもあった。会場に入ると中高年の山屋さんとおぼしき方も多い様で、前評判どうりにお客さんの数は多い。自分もそうだが、これを見る為に久しぶりにシネマシアターにやって来たというご同輩も少なくないのでは?

結果は壮大なスケールと映像美に圧倒され、今時のCGを駆使した今の映画とは異なり、30年も前に見た古き良き時代の感動大作を観る様だった。撮影には想像を超える困難を感じさせ、監督ならびに俳優・スタッフの苦労が伺える。細かい事は別にしても、山屋サイドから見ても臨場感あふれる映像で、もう一度剣岳を訪れたくなる様な素晴らしい作品だと思います。特に無慈悲なまでの自然の厳しさが良く描かれ、物語のリアリティを高めている所に共感を覚えます。

感じる点はこの映画は意外と山屋さんにとっての課題で、「なぜ山に登るのか?」というテーマに大きく踏み込んだ作品と思えます。主人公の柴崎芳太郎も山案内人の宇治長次郎のセリフにもこの答えは有りませんが、後に続いた日本山岳会の小島烏水の対比により、明確なメッセージとなって物語の根幹を成している。

「山は人間によって必ず登頂される。最初に登頂した者が後に続く者に道を開く。」しかし、これにはどんな困難(犠牲)を払ってもという非情な背景がある。また、この単純明快な回答が全てを物語り、山を志す者にとって永遠の命題でも有り、そしてエネルギーの原動力となっている。もしこの要素が無ければ、脈々としたパイオニア精神は芽生えず、日本でも近代の登山の発展は有り得なかった。

それと「初登頂の意味」を問うところが興味深い。結果的に初登頂ではなく、陸軍参謀本部陸地測量部上層部と世間は価値を否定したが、その後100年後には実質的な初登頂と評価される所がポイントと言える。つまり結果が全てではなく、その当事者の価値観が全てを支配すると言う認証でも有る。

普通、登頂の記録が有りながら検証出来ないという場合が多いが、登頂の事実が有りながら登頂者が不明と言う逆のパターンは稀有だろう。また、初登頂者の動機が純粋な信仰心だとすれば、後で冒険あるいはスポーツ登山の続登者の価値観も異なるだろう。解り易い例で言うならば、ヒラリーがエベレストに初登頂した事と、その50年後に日本隊が厳冬期のエベレスト南西壁を初登攀した時の評価の問題で、どういう価値観を誰が認めるかと言う点では同じ様なものだ。

これと比べるとえらくスケールの小さい話だが、山スキーなどでも似た様な要素が有る。スポーツなのかそれともレジャーなのか、あるいは単なる宴会目的の手段(これもそれなりに楽しい)なのか、当事者によってその認識・価値観は異なる。本人もあまり考えたことがなかったり、または無意識だったりする。急峻な斜面にエクストリーム的なラインを引く事と、美しいパウダー斜面に理想的なトラックを残す事と、大きな山脈に長大なツアーコースを求める事では異なり、場合によってはその世界が異なる。

剣岳はかつて2度だけ東面を訪れた事があるが、経験の無い西面の小窓尾根・早月尾根や周辺の山容がイメージできず、映像を見ていても位置関係が解らず面食らった。しかし、自分が最初に山頂に立ったコースは、同じ長次郎雪渓から本峰の南壁経由だった事も印象深い。今時アルパインクライミングは斜陽の世界の様だが、今になると登っておいて良かったと思う。

山を知らない人や関心の無い人にとっては、知らない山の光景の連続で退屈かも知れませんが、この映画の雄大で美しい映像はそれを上回り、素晴らしい感動を与えてくれるでしょう。山岳界の主役を演じる中高年の皆さんのみならず、高校生、大学生などの若い方にも是非観て頂きたい作品だと思います。


■ 1月22日(木)  N山岳会HP掲示板の受難

 N山岳会とは、自分が日頃懇意にさせて頂いている全国でも著名な会です。
この会の方々には知人も多く、同じフィールドで同じようなスタイルで行動する仲間で、お互いの意思疎通とか同じ目的を共有するお付き合いが出来ると信じています。大体山屋さんの世界は意外と狭いもので、たとえハンドルネームでもその個人は特定できて、インターネットの中でのやり取りでも殆ど違和感は有りません。

 しかしながら、誰にでも門戸を開ける事をポリシーとする善意の会は、突然に外部からのいわれの無い意味不明の攻撃を受ける立場でもある。山屋さん関係ではまれな事だと思うが、まったく異次元の第三者からの攻撃に対しては無防備に近いと思います。

 いわゆる「荒らし」を判断する基準にはいろんな意見が有ると思いますが、本人が自覚しているいないに関わらず、結果的に会の皆さんやその関係者の場の雰囲気を乱し、ただ一方的な主張を躊躇わずにその場の雰囲気を乱しています。本来まったくの第三者である人が、会員・又は仲間の交流の場である掲示板の主役となることには違和感が有ります。

 事の発端とその内容は解りませんが、本来はその個人同士の間で論じられて解決すべきものを、公の場である掲示板を利用して攻撃する事は許されないと思います。その主張する内容と目的が何なのか不明で、自分から見ると山スキーに関する意見の交換の場とは思えず、周りを巻き込んであえて混乱を助長し、自分の主義主張を垂れ流す迷惑行為としか思えません。

 このケースでは自分にも不慣れで有効な対策は思いつきませんが、誠実な対応でも解決の糸口が無いと判断された時には、簡潔な理由を述べて削除すべきと思います。これでもエスカレートするような場合には、一方的に削除するか又はサーバーの管理者に依頼してブロックすべきです。掲示板の管理者は毅然とした態度が求められ、決して挑発的な誘いには乗ってはいけないと思います。

 投稿者の主義主張は確かに自由ですがそれは大人同士の常識の範囲であって、それを受けて立つ掲示板の管理者には投稿を制御する権利が有り、投稿者はそれに従わざる得ない関係に有ると考えます。

 本来不特定多数の愛好者を善意の立場で受け入れている会が、一方的な理由で攻撃されるいわれは無く、多くの方を失望させ落胆させる結果になるのは残念です。もしこうした主張を貫くならば、著名なプロガイドにお金を支払ってフルパッケージを購入し、その結果不満が有れば堂々と主張すべきです。あなたには立派な権利が有ります。

 自分は当事者でも会の関係者でも有りません。今回掲示板への書き込みは遠慮させて頂きますが、いろんなご意見はお受けいたします。ただし理不尽な意見を除いて。


2008年


■ 8月16日(土)  沢屋と釣り師の関係

夏になると山から遠ざかってしまい、何処かストレスの発散場所も無い鬱陶しい日々が続く。毎年の事なのですっかり諦めてはいるが、今頃になると気になるのが飯豊・朝日連峰などの遡行情報で、今年の天候・雪渓の状態ではどんな成果が上がったのか?何処の沢にどのパーティーが入ったのか?このエリアを狙いそうな沢専の会のサイトを覗くのが小さな楽しみでもある。

ところで、前から少し気になっていたのが「釣り師」と「沢屋」の関係で、この呼び方にどういう意味が有るのか興味があった。「釣り師」と似た言葉に「釣り屋」という言い方をする場合も有るが、「釣り師」自身は一般的に自分を「釣り屋」とは呼ばない様だ。
また、逆に「沢屋」(沢登り愛好者)と呼ぶが、「沢師」と言う言葉は無く、殆どの人は自身を「沢屋」と呼んでおり、十羽一絡げで「山屋」と自称している人もいる。

この「釣り師」には何か尊大な意味が有りそうに思えるが、同じフィールドで遊んでいる「沢屋」からすれば少し違和感を感じるのは私だけか?おそらく「沢屋」「山屋」とは謙遜を込めた自称であり、例えば山登りをする人が自身を「登山家」とは言わない様な意味合いがある。「登山家」となれば小西政継・山田昇・ラインハルト・メスナーのような伝説の人物、または著名なプロ登山家をイメージする様に、我々「山屋」レベルとは隔絶の感がある。少なくても自分の周りには「登山家」などと称される人々は皆無だ。つまり、「おれは山屋だ、文句あっか?」で良いのである。

私は思うのだが、同じフィールドで遊ぶ者として釣りをする人々は「釣り屋」または「釣り人」と呼んだ方が良く似合う。その目的・価値観は違っていても同じ渓を活動の舞台とする者であり、同じ様に社会的な貢献度の低い「殆ど皆無だが」趣味の世界で生きる人々である。

また、この「釣り屋」という呼び方にはまた別の意味がある。この「釣り屋」という言葉を使うのは「沢屋」の方で、釣りをする人々に対する侮蔑的なニュアンスが含まれているからだ。
「あいつらは沢をゴミだらけにして後始末をしない」、「あいつらは岩魚を乱獲し、モノを取る事しか眼中に無い」。この2つが昔からの最大の対立点であり、「沢屋」から見ると全ての釣りをする人々にそれを当てはめてしまいがちである。
確かに日帰りで楽しめる様な人気の釣り場はゴミに溢れ、解禁当初には一番乗りで山奥のポイントにたどり着き、まだ深い雪に覆われた深い釜の中からサビてやせ細った岩魚を釣り上げ、毎年お土産と称してごっそり持ち帰る懲りない面々もいる様だ。
持ち帰って鮮度が落ちた岩魚を食べる位なら、スーパーで買ったカツオ、サンマの方が旨いし、元々少ない川虫・昆虫果ては蛇・ネズミ等の悪食の魚と、エビ、カニなどの豊富な餌で育った海の魚とでは雲泥の差がある。

しかし、自分では釣った岩魚を現場で食する事に抵抗感は無く、むしろ釣った岩魚を美味しくかつ無駄なく頂くという事に徹し、岩魚は現場で食する分だけの殺生に留める事にしている。こういったスタイルは山釣りを専門とする釣り人の殆ど共通のマナーであり、確固としたマナーと遊びのスタイルが確立した人々の共通の「啓蒙」に追うところが大きい。それは困難な遡行を終えてビバークサイトでようやく竿を出し、今夜の僅かな酒の肴を求める「沢屋」の気持ちも同類だろう。

ただ、「沢屋」には伝統的というか根底的な意識として、「沢屋」には同じフィールドで遊ぶ者として一つランクが上だという意識が透けて見える。魚止めの滝から先に興味の無い「釣り人」とは異なり、その先の困難な滝の直登やゴルジュの突破・高巻に最大の価値観を持つ点で、そういう意識を持つ理由にも道理がある。
しかし、元々釣りと沢登りでランクの上下などは有る筈も無く、比べる基準そのものが存在しない。
そういう意味で一部の釣り人を見て全ての釣り人を十派一絡げにし、未だに「釣り屋」と蔑称してしまう「沢屋」の意識も低いとも言える。釣りの解禁時頃だけ岩魚釣りを行い、鮎釣りからヘラぶな釣りなどがメインの日帰り「パートターマー渓流釣り師」等とは異なり、マナーに厳しい組織された山釣りグループも少なくない事も知るべきである。

2007年


■ 12月9日(日) スノーモービル乗り入れ問題 朝日産地巡視員会議 


12月9日(日)の山形新聞に、月山のスノーモービル乗り入れ問題についての記事が掲載されていた。内容は朝日山地森林生態系保護地域で活動している巡視員の会議が8日開かれ、懸案になっている月山周辺のスノーモービル乗り入れ問題について協議されたとあった。この会議は朝日庄内森林環境保全ふれあいセンターの主催ですが、かねてから「自然を守るスノーモビラーの会」からの申し入れを受け、愛好団体の「月山ルール」提案を聞くのが目的だった様です。この「月山ルール」とは時間や台数制限を設けた上で、一部の保護地区に乗り入れできる「月山特別ルール」を提案した内容です。

 今後17日に住民と反対派からの聞き取りを行った上、方向性を打ち出す手順となっている様です。しかしここで気になるのが反対派の方々。紙面にはスノートレッキング団体、旅館店主、住民と有るが、山岳関係者とか山スキーヤー、テレマーカー、スノーボーダーなどはどれだけ含まれているのでしょうか?私達は山でモビラーの方々と遭遇・目撃したり、またはトラックベルト跡を歩いたりするケースがあり、感情的には最も対立する関係に有り、関心の有る方も少なくないと思います。不幸な事はお互いに魅力的な雪の斜面を共有する事です。

乗り入れ規制については既に必要な時期に来たと思いますが、法的な強制力を伴わない規制でも、その実施については慎重な議論が必要だと思います。野生動物や植生へ与える影響を懸念する事は勿論ですが、私達にとって冬山登山あるいは山スキー等は、永い歴史と伝統を持った誇り高き文化であり、常に厳しい大自然と共に歩んで来たと言う自負が有ります。特に朝日連峰・月山の様なの厳しい環境でも決して大自然を侮る事無く、山では謙虚に遊ばさせて貰っているという姿勢で有りたいと思っています。山頂は決して征服出来るものではなく、つかの間の好天時に微笑んでいるに過ぎません。

私達は決して山の中での既得権を主張するものでは無く、この無慈悲な大自然の力と人間の無力さを直視し、共に同じフィールドで活動する者として認識して頂きたいと思います。決して強大な機械力を過信する事無く、山に対しては謙虚であって欲しいのです。

しかし、残念ながらスノーモビラーに特に人気の鳥海山の東面などでは、有ろう事か山頂まで駆け上がる現実を目にし、場所によっては地元の愛好団体の自主規制及びパトロール等の努力にもかかわらず、決定打では無い様にも思えました。なぜならばモビラーは地元の方々とは限らず、仙台を初め関東・首都圏の方も訪れているからです。ここまで来れば何らかの規制も止む無しと考えざるを得ません。そして重要な事は地元では勿論、全国的に率先して発信しながら啓蒙活動を行い、スノーモビラーの方々に理解と協力を求める事だと思います。

岳連加盟の山岳会等とは異なり、私達のような未組織のスキーヤーはこの様な場で意見を述べる機会が無いのが残念ですが、実際月山などで活動しているのは未組織の方々が大半、または岳連には未加盟の山岳会などというケースも有る。特に長年月山周辺で活動してきた山スキーヤーには一際関心も高く、各自いろんな考え・意見が有ると思います。今後どういう結論が出るのか興味深い所ですが、出来ればその辺にも配慮して頂けたらと思いました。

※ 12月9日 山形新聞 朝刊 

http://www.yamagata-np.jp/newhp/kiji_2/200712/08/news20071208_0118.php

※ 朝日山地森林生態系保護地域管理委員会概要

http://www.fureai-kokuyurin.jp/

http://www.fureai-kokuyurin.jp/shiryo3-2.pdf


■ 9月13日(木)  雪庇の崩落 

日ごろ遭難事故などにはあまり縁の無いな自分だが、2007年7月26日、名古屋高裁金沢支部において、大日岳遭難事故第三回目の和解協議が行われ、原告の請求を全て 国が認めるかたちでの和解が成立し、山スキーヤーとしては大変興味深いものが有った。

 この遭難事故は、2000年3月5日 北アルプス大日岳で文部省登山研修所の研修登山に参加したメンバーが雪庇上で休憩中に雪庇が崩落し、11名が雪崩にまきこまれ、内藤三恭司さんと溝上国秀さんが死亡した。翌年国は、雪庇の崩落は予見不可能で、引率講師に過失はなかったという調査報告書を発表し、遺族に謝罪すらしなかったことから、遺族は国家賠償法に基づき、2002年3月国に損害賠償を求める裁判を起こした。

    

       文部省遭難事故報告書より

この裁判で大きな論点の一つは、「雪庇の形成及び崩落の予見可能性」ついてであり、「雪庇回避のための想定及び判断」が適切であったかどうかである。事故の原因は山稜を雪庇の先端から10mと判断した事に有り、実際の山稜はコースから27mも風上側(東)にあった事が判明し、このコースを選択した講師の判断ミスの是非が問われた。

裁判で、国側は雪庇の大きさが40メートルもあり、例年をはるかに超える大きさだった事によりルート選定を誤ったとし、雪庇の崩落は予見できなかったとして過失を認めない主張を展開した。雪庇を避けるためには山稜を特定して山稜付近を登高すべきだが、雪庇を避けるためのルート選定方法として、通常は雪庇先端から10数メートルの位置を歩けば安全なのである。しかし、この年は雪庇がかってないほど大きかったために雪庇をさけられず、予見不可能な大きな雪庇ができていたと言う、異常気象が原因での不可抗力だと主張をした。
2006年4月26日、富山地方裁判所の判決が下されたが、その内容は、講師は大日岳山頂の雪庇の大きさを10m程度と判断した上で、この雪庇を避けるために見かけの稜線から十数メートル程度の距離を取った。しかし、大日岳の雪庇の大きさを25m前後と予見する事は可能であり、見かけの稜線上から少なくとも25m程の距離をとって行動及び休憩の場所を選定すべきてあり、講師らの選定基準には過失があったとされた。

  

A.平成19年5月4日 飯豊連峰 門内岳〜北股岳      B.平成16年3月20日 朝日連峰 小朝日岳〜熊越え

この講師は日本山岳会、1991年ナムチェバルワ峰7782m日中合同登山隊の初登頂者で、日本でも有数の登攀ガイドとして高名な方であり、過去14回ほど、大日岳でこの文部省主催の講習会を行っている。しかし、大日岳の雪庇は他にあまり例を見ないスケール言われているが、この山域を知り尽くした佐伯山岳ガイドによれば、40m位の雪庇は有り得るとのコメントが有ったようです。

自分は大日岳には登った事が有りませんが、この話を聞いて思ったのが飯豊と朝日の雪庇でした。同じ日本海側に面する日本でも有数の豪雪山域と言う共通点で、この桁外れの雪庇の大きさを想像してみた。A.は5月の飯豊連峰の主稜線上の雪庇ですが、この時期でも雪庇の張り出しは25mを越え、おそらく3月末頃の時期には35mくらいには成長しているように思われます。3月頃には視界が良好でも実際の山稜の認識は難しく、どれほどの大きさなのか判断するのは困難でしょう。今年は雪不足と言われながらも、3月後半からの大雪と強風で、雪庇は大きく成長したものと思われます。

B.は3月の朝日連峰の熊越え通過時の写真(先行者は雪庇の上に乗っているの図)ですが、風下側に大きく雪庇が張り出し、最低コルではやはり25〜30m程は有ったと思われます。この様な事例から考えると、大日岳の雪庇だけが予見不可能な雪庇の規模とは言えず、日本海側の北アルプス・東北などの山では想定すべきであるとも言えます。つまり表向きのデータが無いだけで、意外と地元だけに知られている可能性が有ります。

雪庇は冬山登山者・山スキーヤーにとって避けて通れないケースが多く、自分も冬山初心者の頃は2度雪庇の踏み抜きを経験している。3月の蔵王〜二口山塊スキー縦走の時、北雁戸山と仙台神室付近で2日連続の失態をやらかした。幸い雪崩を誘発する事も無く10〜20m程の滑落で済んだが、結果これが良い薬となったようでその後は経験が無い。やはり経験が物を言う登山の中でも、最も典型的な学習効果ということが言えるだろう。

雪庇の歩き方については登山技術書には載っていると思うが、実際には各登山者によってその判断は様々で、必ずしも安全な歩き方とは言えない現場を良く見る。もちろん時期、天候、雪質によって歩き方は変わってくるが、降雪中はもちろんの事視界良好の時でさえ、その判断力は実戦の中で学ばないと意外と難しい。山岳会等での山行ならば先輩方から学ぶ事も多いが、未組織登山者の場合にはそこのところがネックとなる。事実、HP上の写真を見ると冬山の経験が長い人と思われる人でも、意外と雪庇の先端から2〜3mほどの所を歩いていたり、実際に崩落した現場写真を平然と載せていたりする。雪庇の基本構造・成型の過程・スケールなどの知識のない方が少なくないと思われます。

考えてみると雪崩に関しては研究が進み、体系的な雪崩講習会などが開催されて多くの参加者を集めているが、雪庇については基本的な研究とか、崩落のメカニズムについての解明は殆ど成されていない。殆どが経験とか憶測に頼る状況で、登山者・山スキーヤーの関心も雪崩程には無い。確かに緩やかな山容の東北の山では、雪庇を踏み抜いても大事故に繋がる事は少い。しかし雪崩以上に冬山でのルートミスによる遭難が多いのと同様、意外と雪庇の踏み抜きは頻発していると思われるので決して侮ってはならない。

あと、この裁判で気になったことがもう一つ。それは、この訴訟を勝ち取る為に原告団は30万人に及ぶ署名を集めたそうですが、個人的には数の論理で勝利を勝ち取ると言う方法に少し違和感を感じます。大切なご家族を亡くされた遺族の方々にはお悔やみを申し上げます。署名活動は社会一般に認められた権利と言えます。しかし、この山岳事故の訴訟問題の場合、冬季で一般人の入山が困難な山岳地帯であり、限られた人しか事故を検証する事が出来ず、しかも雪庇は日々変化して事後の確実な物証を集める事は困難と思われます。しかも、裁判に関しては冬山登山の専門的な知識・雪崩や雪庇の知識が不可欠で、多くの冬山経験者や学術専門家の力を必要とします。また、今からの建設を反対するとか、もっと条件を改善して欲しいと言う要望なら解りますが、起きてしまった過去の事実について、数の力に頼ることは筋が違う様な気がしますが・・・・。

※ 関心のある方は次のサイトへどうぞ。

「大日岳遭難事故を考える」

http://www.geocities.jp/sa9zi2005

「北アルプス大日岳遭難事故調査報告書」 文部省

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/02/houkoku/index.htm

「大日岳遭難訴訟裁判記録」 

http://sports.geocities.jp/tadophoto/



9月12日(水)  登山の法律学

最近読んだ山の本で読み応えのあった本がある「登山の法律学」 2007年7月出版。東京新聞出版局刊。これは「岳人」2004年1月号〜2006年12月号に連載された「山の法律学」を改題し、大幅な加筆を加えてまとめた物です。著者は東京大学法学部卒の弁護士の溝手康史氏。自ら縦走、冬山、沢登り、山スキー、クライミングなど幅広く行い、海外でもハンテングリ(7010m)とボベーダ(7439m)登頂、カラコルムのアクタシ(7016m)初登頂、バフィン島のフリーガ2峰登攀など、輝かしい登山経歴を持つ方です。

かつては「山に法律を持ち込むべきではない」とされ、山岳事故に法律を持ち込むことを嫌う風潮が有りました。しかし、最近は登山に限らず、全般的に法律問題に対する社会の関心が高くなっており、また、ツアー登山、ガイド登山、商業的講習会、クライミングジムなどが一般化し、登山やクライミング、沢登り・山スキーなどに関して、法律を避けて通れなくなっているようです。その象徴的な出来事が大日岳訴訟だったと思います。

これは旧文部省登山研修所が2000年に実施した北アルプス・大日岳の研修登山で、雪庇の崩落による雪崩で死亡した大学生2人の遺族が国に約2億円の損害賠償を求めた訴訟は今年の7月26日、国が冬山登山の安全対策を講じることや和解金1億6700万円を支払うことなどを条件に、名古屋高裁金沢支部で和解が成立した。結果的には講師の個別的な責任は問われなかったが、民事訴訟で国側の過失責任を大幅に認めたものだった。この判決についてはいろんな意見が有ると思いますが、この判例が今後の山岳事故訴訟問題で大きな影響力を持つものと思われます。

この本は法律問題を扱ったものとしては意外と読み易く、判例もしくはケーススタディを中心としていて理解しやすい内容となっている。実際には、山岳事故で法的な責任が問われるケースは稀で、その法的な責任を認める判決も少ない。しかし最近、仲間内の登山以外のツアー登山、ガイド登山、登山講習会、学校登山などと多様化し、山岳事故については今までに無い引率者責任がクローズアップされてきている。登山中の事故の殆どはなんらかな人為的なミス(ヒューマン・エラー)が介在しています。一見不可抗力の自然現象のように思われますが、結果的に事故の原因として人間の判断ミスが問われる可能性が有ります。

登山とは、安全管理の可能な社会を離れてわざわざ危険な山岳地帯に入り込む行為です。「危険な事を承知した上でわざわざ行う」という登山の特性から、「危険な登山は、それが義務や職務で無い限り、あらかじめ了解した危険の範囲では自己責任」だとする事が要請されます。その為、登山における法的責任に関して、予め予想される危険のうち何処までが登山者の自己責任になるかが重要なポイントとなります。山岳事故においては特に引率登山と自主登山の区別は重要であり、この違いによって安全配慮義務の有無や範囲・責任の重さなどが決まってきます。

自分のような古典的な山岳会育ちの山屋は、新人の時から先輩の後に付いて行って多くの経験を積み、辛い思いの山行を重ねながら自ら技術・体力・集中力を高め、やがてリーダー格に育って多くの実り多い山行を実践出来るものと思っていた。したがって仲間内ではお互いに暗黙の了解が為されており、法律問題を意識する事などは無かった。しかし最近は事情が異なり、登山者は必ず組織的な一員である必要も無く、その長い修行期間を一気に飛ばして希望のツアー山行に参加し、最も自己満足度の高い登山を手っ取り早く実現する事も出来る。組織的なわずらわしさが無い分、自分の志向にあった登山を自由に満喫できるという点でメリットが有り、現実的なニーズも大きい事から今後も拡大すると思われ、私も決してこれを否定するものでは有りません。しかしこの傾向が強まれば引率登山での法的問題が強調されるようになり、もし事故が起こったときは避けて通れない自己責任と引率者責任問題に突き当たります。

この本は著者の豊富な登山経験に基づく実践的な内容に沿っていて興味深く、登山行為の本質に迫る様な意気込みが感じられ、大変興味深く読む事が出来ました。最近多くなった山岳・ツアーガイドさんまたは今後その方面を目指す方には必読書であり、いろんな会のリーダー格の方にも一読をお勧めします。しかし、最近資格試験で多少法律関係をかじった事はあったが、最後には流石に読み疲れてしまった。


■ 5月30日(水)
  2007年 山スキー棚卸

今シーズンは何時になく早めの板納めとなり、最近はぽっかりと穴が開いた様な空虚感の有る日々。最後の飯豊山行も悪天候で中途半端となり、何か後を引きずる様な気分でぱっとしなかった。しかしもう一度北股岳の山頂に立とうという気も起こらず、デブリと洗濯板の様な斜面を連想し、モチベーションは下がる一方だった。

今年は暖冬で全国的に山スキーも低調だったのか、目を見張るような新しいコースの開拓や派手なルンゼ滑降、または長大なコースの走破記録などが少なかった。それにあれ程盛り上がっていたバックカントリー系のテマーカー・スノーボーダーの皆さんの姿も少なく、関連ブログを覗いても更新もされず低調な雰囲気。なるほどパウダースノーを追い求める向きには退屈な年だろう。でもアイスバーン・モナカ雪・湿雪・ザラメ雪など、何でも有りの山スキーヤーは落胆する事も無い。むしろ暖冬傾向の時こそ困難な壁が突き破られ、新しい世界が広がる可能性が出てくる。

また、今年はこれ程GPSにお世話になるとは思わなかった。GPSについては人によってそれぞれ価値観は異なると思うが、今までは消極的な位置づけだったのが積極的な使い方に変わり、山スキーのプランニング・スタイルに大きな役割を果たす事となりそうだ。悪天候でもコースミスする事は少なく、しかもロス時間無く帰ってこれる事は計算がし易い。鳥海山・月山の厳冬期の山行などには大きな武器となり、また新たな可能性が出てくるだろう。

今年はあれ程通いなれた蔵王にはまったく食指が動かず、下部が薮がらみのコガ沢・北屏風東壁は結局訪れる事もなかった。しかしその反面、普段は登頂はおろか近づく事さえ困難な鳥海山の、ほぼまぐれと言って良い元旦登頂など出来てしまう。旨く好天を狙えば1〜4月でも七高山のワンデー登頂が可能となり、今までに無い選択肢が増えて面白くなった。残念ながら首都圏の山スキーヤーさんには機会薄だろうが、地元山スキーヤーにとっては嬉しいチャンス。天気図を読み込み、少し早立ちを心掛ければそう難しくはないと思います。

また鳥海山の御田ヶ原コースも意外と素晴らしく、これで鳥海山東面の上ノ台コース・ビア沢コースを入れた3部作が整った。雪が豊富で雪質も良い東面のエリアこそ、もっと多くの山スキーヤーが訪れて良いと思う。春スキーの既成コースに物足りない向きにはお勧めで、きっと期待を裏切らない素晴らしいフィールドが待っているでしょう。ただ、鬱陶しいスノーモービルのトラックベルトと、静寂をぶち壊すフルスロットルのエンジン音を除けば・・・。

自分ではランク付けはあまり好きでは無いが、あえてベスト3上げるとすると次の通りだろうか。@鳥海山 湯ノ台コース〜七高山(1月) A朝日連峰 赤見堂岳〜北尾根(1月)B朝日連峰 障子岳周遊(4月)。もう少し欲張ったプランも有ったが結局計画倒れとなり、もう少し作戦を練り直して来年の宿題として暖めておきたい。

とにかく事故とかこれといったトラブルもなく、仲間と旨い酒を飲みながら楽しく過ごせた事が嬉しい。山岳会の皆さん、山小屋でお会いした先輩・山スキーヤー、拙サイトにご訪問頂いた皆様など、お付き合い頂いた多くの方ありがとうございます。



■ 5月25日(金) 
「登山の森へ」 遠藤甲太著

 そろそろ山スキーも一区切りがつき、暇な日々を送っています。
最近山の本などあまり読んでいないが、暇をもてあまして市の図書館から借りてきた一冊の本がある。その本は「登山の森」。著者は「詩人・エッセイスト」の遠藤甲太氏。一般的にご存知の無い方も多いと思いますが、あまり派手な記録ではないが、この方は日本のアルパインクライミングが絶頂期を迎える頃、長谷川恒夫がデビューする前の谷川岳一ルンゼ冬季初登攀、パキスタンの難峰カラコルム・ラトック1峰初登頂などの歴史的かつ輝かしい記録を持つ方。本業が文筆業で今は国内登山史の膨大なデーターを収集分析し、詳細かつ辛口な評論を書いている方です。

 例えば新田次郎の作品については初期の「強力伝」を除いてはは二流三流の小説だとか、優れた山岳文学というのと、パキスタンのディラン峰登山をモデルにした北杜夫の「白きたおやかな峰」くらいとか、大作家をばっさりなで斬りするような事を書いている。読んでいると何かうなずける事もあって、なにか爽快な気分にしてくれるれる意外と面白い本だった。

 この本の真骨頂は「登山史の落し物」という、正統派登山史にはまず記載されていない資料をベースにした、埋もれてしまったメンタルヒストリーを書いた本だった。ほうっておくと誰も見向かず、やがてはゴミになってしまう「落し物」だが、それは以外と我々地方山スキーヤー・山屋さんにも興味深い、埋もれた登山史年表の集大成でもあった。

 ここに登場する著名な加藤文太郎、松濤明、小西政継の他、殆ど無名の立田實と言うクライマーが登場する。この名前は自分でも始めて知る方だが、実は1950〜70年代、桁外れの情熱を持って「山」に対した方。若く45歳に満たない短い生涯のうち、おそらく5000日程を山行に費やし、日本の山岳、岩場を無尽に縦横したのち、世界の山々を巡り岩場を攀じた方。老舗の緑山岳会に所属していたが殆どは単独山行に徹し、谷川岳等の多くの冬季初登攀、北アルプス・南アルプス等で長大な冬季初縦走を行っている。南博人の一ノ倉沢南稜冬季初登の前年に実質的な冬季単独初登攀を行っている。南アルプスの厳冬期全山単独縦走のほか、当時はまだ探検的登山である、知床連山の厳冬期単独初縦走等(19歳頃)を皮切りに、世界ではアコンカグア南壁完登(第2登?)、アイガー北壁単独登攀、グランドジョラス北壁(1971年前後)、ナンガパルバット南壁偵察(単独)、ダウラギリ南柱状岩稜偵察、エベレスト8300m地点到達(シェルパになりすましてサウスコル上部まで)。

 その後の彼は地球的放浪者となり、北米・南米・カラコルム・ネパールヒマラヤは勿論の事、アフリカ・アラスカ・中央アジアの山々に足跡を残している。当時はまだ世界の誰も着目しない、知る人ぞ知る先進的な目をした登山家だったとい言われている。まだ当時外国人には未解放のチベット入国(ラマ僧と一緒に)〜ネパール〜ブータンを経てビルマ入国。なにしろあのカリスマクライマー、森田勝も怒鳴られ蹴飛ばされて育ち、彼をしてものすごい人と言わしめた存在だったらしい。しかしこの孤高のクライマーは詳細な記録を残さず、むしろ亡くなる前には自らの記録を全て焼却処分してしまった為、彼を慕う多くの仲間による追悼集と、仲間による伝説的な記憶しか残っていない。

 この方の様な破天荒なスケールとは行かないまでも、私の先輩諸氏にも同じ様な道をたどった方が一人いた。およそ34年前私が同じ山岳会に入った時には、ネパールヒマラヤ登山に向かっていて面識はなかったが、その後カラコルム・ネパールヒマラヤを放浪した後、大胆にも単独でネパールのランタンリ(7250m)を試登し、帰らぬ人となった人だ。今から36年程前、飯豊連峰の冬季初横断・厳冬季利尻山東稜・黒伏山南壁中央ルンゼ冬季初登攀等、東北では特異な先鋭的山行を実践した方だった。この方は立田寛と似て何か共通するものがある。

 しかしこの面白い本は2800円。今の山屋さんでこれだけの散財をする人はどれだけいるだろうか?自分は残念ながらせいぜい680円の新書本どまりです。


■ 2月21日(水)
  地方山スキーヤーの独り言

 最近は天候のタイミングに恵まれず、途中下車の様な中途半端な山行が続いています。やる気はあるが天候が1日ずれてしまうというケースで、週一のサンデースキーヤーに取っての打撃は大きい。こういう時ほど時間の取れる自営業者の方とか、有給休暇・代休とり放題の方とか、自由業的な立場の方ほど羨ましく思う時もない。まあ、あまり時間的な余裕が無い事を嘆いてみてもしようがないが・・・。

 しかし、日頃あまりまじめに考えたことは無いが、最近、地方の山スキーヤーで本当に良かったと感じる事が有る。何がそんなに嬉しいかと言うと、未だに東北のエリアについては、意外と知られていない未知の領域が残っているという事だ。この未知の領域というのはかなり個人的で主観的なものだが、少なくても自分にとっては東北はまだまだ手垢の付かない、知られざる世界が有るように見えてくる。この辺はその人の山行スタイル、山に対する価値観、所属する団体、経験などによって考え方も様々だ。他の人にとってはまったく関心が無かったり、一般的にはどうでも良い様な事も有るだろう。その為場合によっては気の進まない仲間に無理を強いたり、相方にとって価値が無かったりするケースもたまに有る。

 東北で未知のエリア?
それはやたらとアプローチが遠く難儀な所でしょう。例えば林道の長いラッセルを往復覚悟する。山頂の標高は低いが登山口の標高が低く、主稜線までの高度差がやたらと大きい。天候が荒れると未だに一晩で積雪1m近い降雪に見舞われ、退却さえ困難な場面も有りうる。当然の事だがだがそんな所にリフトなど無く、また他人のラッセルなどまったく当てに出来ない。主稜線の避難小屋は最近整備されているとはいえ、冬季となると到達さえ困難な所に位置しているetc。つまり東北は国内の冬季登山の中でもいわゆる3K的な要素を多く含んだエリアで、この様な所が未知の世界に該当すると思われます。従ってその様なコースなら訪れる物好きも少なく、年にほんの数パティーまたはまったく人を寄せ付けない存在となる。

 だが、見方さえ変えれば解決方法は有るもので、山スキーの場合は機動力を生かし、短期・速攻的な方法でチャンスを窺がう事は出来る。天候、高度差、水平距離、雪の状態、行動時間、登山スタイルなど、難解なパズルを解く様なゲームと考えるとむしろ楽しみが生まれる。山スキーは気まぐれな天候相手の遊びと思っているが、皆さん周知の最も基本的な行動パターンは、一日の行動時間の中でタイムリミットを設けて山頂を目指す事。常に退路を計算して時間を頭の中に入れ、タイミングを誤らない様に判断を下せば大体は帰ってくる事が出来る。

 ただしこの場合でもは常に不安定要素が残り、誰にでも無理はお勧めという訳には行かない。経験・時術・体力などにもよると思いますが、天候判断の遅れまたは急変、コース取りまたは退却路の誤り、突発的な事故・トラブルなどで予定通り進まないケースも良くある。つまりガイドブックなど無く、全て自身のプランニング、その場での対応能力、技術、体力など、経験に依存する要素が色濃いという事です。

 いい加減に年齢を重ねてくると全てが億劫になってくるが、一旦その気になった本人にとってはいたって真面目で、そこに希望の一角が見えてくると気持ちは次第に高まり、必ず実現したくなる自分に気が付く。幸い似たような志向を持った仲間がいれば声を掛け、運良く共に成功できればその充実感はまた大きい。しかし仲間にも好み・志向が違いまったく相手にされない時もあり、その時は自分のペースで早朝の出発を覚悟して一人で実行に移す。

 何時までのようなモチベーションが続くかは疑問だし、何時目標を失ってトーンダウンするか解らないが、さしあたり何時でも出動可能な幸せな境遇こそ、その瞬間どっぷりと山の世界に浸りたいと思っている。少なくてもここ東北では自己満足を実現出来る、未知の要素が残された日本では数少ないエリアと思っています。


■ 1月28日(日) 休みの日の衝動買い

 今日は天気が良さそうだったが雑用の為に山は諦めた。
少し時間があったのでたまに訪れる太白区の古書店の萬葉堂さんに寄り、文庫本を一冊買い求めて帰ろうとした所興味深い本が7冊。「岩と雪 1〜7号」値段は7冊で7000円と表示され、隅の本棚の一番下の所に押しやられていた。紐を解いて本をめくってみると、多少は黄ばんではいるものの汚れや破れた様子も無く、この7冊は保存状態が良くて上物に思えた。先日、知人から8号を貰ったので、この7冊を購入すれば1〜110号まで36号の一冊を除いて揃う事になる。まったくの偶然だが、このチャンスは他にあるまいという事で、10%だけ値切ってなけなしをはたいて購入。

 これまで色々な山の本は購入したが、別に骨董的な趣味は無いので今まで高い金を払って買った記憶は無いが、ただなんとなく「岩と雪」だけは別物で思い出深い物がある。かつてアルパインクライマーを目指していた頃は、たいした記録でもなかったが5〜6本投稿し、登攀クロニクルに全て掲載してもらった。今思えば記録のレベルとか内容は別にして、当時、東北の山屋さんからの投稿が極めて少なく、珍しさがあっての掲載だったのだろう。

 創刊号の発行は昭和33年6月25日、P324のB5版で定価300円とある。内容はヒマラヤの初期の情報に関するものが2割位で、他は烏帽子奥壁、中央稜、滝沢、前穂東壁、北岳バットレス中央稜、赤石沢奥壁中央稜、剣岳チンネ正面壁、不帰岳一峰東壁など、国内の積雪期初登攀記録のオンパレードとなっている。主役は芳野満彦、松本竜夫、奥山明、吉尾弘、吉田二郎など、第2次RCC創成期の初代メンバー。

 読んでみるといまの山行記録とは異なり文学的な匂いというか、まるで小説を読む様な文面で結構面白い。今から50年も前のこの時代とは言え、既に激しい初登攀争いが当たりの様で、「未踏」の持つ魔力に引き付けられた多くのクライマーの生き様が描かれている。この激しい積雪期の初登攀争いから社会人山岳会が実力蓄え、伝統的な大学山岳部系山岳会主体だった日本の岳界勢力地図は塗り替えられ、やがて世界をリードするヒマラヤ登山大国に発展して行く。

 いまさら行きたくても中々実現しないヒマラヤだが、そろそろ懐古趣味も似合ってきたという事でしょうか?


■ 1月3日(水)  冬季ローツェ南壁の完登


 ヒマラヤに関心ある人にとっては大変嬉しいニュースが届きました。ネパールヒマラヤのローツェ南壁に3回目の挑戦を挑んでいた、日本山岳会東海支部隊の第2次アタックが12月27日15:35に成功し、冬季の南壁を攻略して頂上稜線に到達した。

 この世界第4位の高峰ローツェ(8516m)の南壁は、ヒマラヤでも有数の困難な岩壁で、標高差3300mで鋭く切れ落ちている。過去20回の試みで成功したのは1990年のとも・チェセンの単独登頂と旧ソ連隊のみであったが、この過酷な冬季に完登したパーティーは他にない。ただトモ・チェセンの登頂は成功を裏付ける証拠は無く、疑惑の初登攀とも言われている。

 この成功を勝ち取ったメンバーには、1993年のエベレスト南壁冬季初登攀に成功した群馬岳連のメンバーが参加し、世界的にも実力者揃いの日本最強のメンバーだった。おそらく難易度ではエベレスト南西壁を凌駕する危険極まりない困難なルートだったと思われます。

 現在のヒマラヤの状況と言えば、殆どの困難なバリエーションルートが登りつくされ、極限的な冬季または単独登攀へ向かう一方、登頂第一主義の商業的ガイド登山が主流を占める時代となっている。ただ前者の登山隊は今や最近極めて少数派で、日本ではヒマラヤンクライマーのレレベルダウンが噂されていた。この成功はこれを打ち消す、日本隊のレベルの高さを世界に知らしめた快挙と言えます。

 ここで登場する群馬岳連と日本山岳会東海支部は日本はもちろん、ヒマラヤで世界のトップレベルを行くエキスパート集団という点が素晴らしい。20年位前までは世界をリードし続けた日本隊だったが、旧ソ連隊、ユーゴスラビア隊、ポーランド隊、韓国隊などの新興勢力が台頭し、アルパインクライマーが減少傾向の中で次第に力を失っていった。そういう意味で今回頂上は逃したものの、日本隊の健在振りを証明した点で価値あるものと思います。

 なお、同時期に同じルートを目指した韓国隊と競合したようですが、過去何度かの挑戦にも関わらず断念した模様。今回完登した第2次隊のメンバーは田辺、山口、ペンバ・ チョルテの3名事です。残念ながら山頂までは41mを残し時間切れで断念した様です。

 以下は8/26 asahi. com 群馬版からの引用です。

 国内での最終トレ−ニングを重ねる名塚秀二さん
前橋市元総社町の登山家、名塚秀二さん(46)=前橋山岳会=が9月、ヒマラヤ最難壁の一つ、ローツェ(8516メートル)南壁での冬季の初登はんに向けて出発する。ローツェ南壁の前に登るダウラギリ1峰(8167メートル)も成功すれば、世界に1座ある8千メートル峰のうち10座(11回)の登頂となり、沼田市出身の故山田昇さん(9座12回、89年死去)を抜き、日本人の最多を記録する。

 登山隊を派遣するのは名古屋市の日本山岳会東海支部。名塚さんは93年にサガルマタ英名エベレスト)南西壁の冬季初登はんを成功させた。日本人では数少ない冬季の8千メートル峰登頂の経験者で、同支部から要請を受けて参加する。

 9月中旬にネパール入りし、ベースキャンプを設置。12月初旬から登はんを開し、同月下旬の登頂を目指す。同支部の偵察では、最終キャンプ(8100メートル)から頂上までに、50メートル以上の困難な岩壁があることが分かっている。

 8千メートルでの酸素は、平地の約3分の1。名塚さんはサガルマタの8500メートル付近で、数メートルの壁の登はんを終えた後、3〜4分間、動けなくなった経験がある「乾期の冬は岩に雪がついていない分、難しさが増す。今回はサガルマタの壁の数倍の高さがあり、厳しさは上ではないか」という。

 名塚さんは高度への順応を兼ね、10月に群馬ミヤマ山岳会とともにダウラギリ1峰(8167メートル)の登頂にも参加する。名塚さん自身、同峰は未踏。ローツェとともに成功すれば、日本人初の10座目の8千メートル峰登頂者となる。「漠然としていた14座登頂が見えてきた。最難関の南壁を越えることで、さらに先につなげたい」と名塚さん。

 ローツェ南壁は、14座すべてを最初に登頂したラインホルト・メスナー(イタリア)が89年春に挑戦したが失敗。「21世紀の課題」と評されるなど、ヒマラヤ屈指の壁とされている。これまでにスロベニアのトモ・チェセンが90年5月に無酸素、単独で、同年秋には旧ソ連隊の17人が別ルートで登頂している。冬季は2度試みられたが、だれもルート核心部に達していない。

 壁の標高差は3300メートル。風速100メートルのジェット気流が吹き荒れる冬には、体感気温がマイナス100度になることもあるといい、落石、落氷を避けながらの最悪の環境での登はんになる。予定しているルートはチェセンとほぼ同じ。単独で登ったチェセンの初登はんは、真偽をめぐって10年以上も論争が続いている。残したハーケンなどが見つかれば、論争に結論が出せると期待されている。

日本山岳会東海支部のWebサイト

http://www.jac-tokai.jp/page104.html

 2006年

 
■11月28日(火)  疲れる忘年会

 先日は昔の山仲間と蔵王町のとある山の中の一軒宿で忘年会。もう大半が50を越えたオヤジばかりの集まりとなると昔話に花が咲くが、いわゆる普通のOB会とはちょっと違い、異常な盛り上がりを見せるのがこの集まりの特徴。
殆どのメンバーはとっくに山から遠ざかり、海釣りに夢中になって青森、伊豆まで出かける者、グライダーに入れ込んでいる者、古民家を手入れして別荘暮らしを自慢している者、自分で自宅を建ててしまう者、派手なボルボでいきなり会場に乗り込んでくる者など様々。昔の付き合いからは想像出来ない様な人生を歩んでいる人が多い。

 しかしかつて自分の歩んだ道は決して消え去る事は出来ず、一気に30年前の仲間の世界へとタイムスリップして行く。開始前から既に酔いつぶれている毎度のメンバーもいたり、宿に堂々と持ち込んだ酒はなみなみと注がれ、ボルテージは上がる一方でまるで歯止めが効かない。現役時代にはとても手の届かなかった銘柄酒、ビンテージもののウイスキーなど哀れな存在。質でなくて量である。

 しかし一人一人と酔いつぶれて行くが、最後の残る人は何時もだいたい決まっている。自分より10歳程上のT氏、もう少しで60歳に手の届きそうなS氏。夜もふけた2時頃になって大声で怒鳴りあっていて自分も目が覚めた。いわゆる「表へ出ろ!」の話である。仲裁に入った元会長サンの尽力で乱闘騒ぎは免れたが、静かでひなびた渓の宿にはまったくふさわしくないご乱心。宿のお上さんの驚きようを考えるとお気の毒と言うしかありません。
結局、外の廊下に寝込んでしまった巨体のT氏を2人で引きずり上げ、コタツに寝かせて今回はジ・エンドとなった。翌朝のT氏の額には階段で転げ落ちた時に付いた勲章が光っていた。

 翌朝になると当事者2人は殆ど記憶が無く、T氏は気持ち良さそうに一番風呂につかり、低農薬栽培の野菜が美味しい朝食をたいらげご満悦。S氏は自分の事など棚に上げ、「ちょっと皆騒ぎすぎてうるさかったな」とのたまう。しかし、周囲の我々も怒りなど無くて笑いのネタとなる。要するに昔からみんな慣れっこになっているのだ。30年前となんら変わる事の無いメンバーだが、これから30年先も変わる事はあるまい。しかし来年の予約を入れるタイミングには困ってしまう。

 
■11月8日(水) チベット難民の悲劇

 もう1ヶ月ほど前のニュースなので一般的には注目されなかったが、中国とネパールの国境付近で起きた忌まわしい事件に触れておきたい。

 9月30日、チョオユー(8201m)のBC付近のランパパスを越え、チベットからの難民43人が国境を越えてネパール側へ逃れようとした。その際に中国の国境警備隊に追尾され、尼僧を含む2名のチベット難民が銃撃されて死亡した。しかも現場はチョウユー登山隊のBC付近で、登山中の各国の登山隊の隊員60名に目撃されている。無抵抗な尼僧が無残にも背後から銃殺されたが、多くの外国人の目の前でこの様な行為に及ぶことが異常である。さらにこの事件が初めてではなく、表に出ないだけで過去に何度か起きている様だ。

 チベットは日本からは実に遠い存在で、日本人には無知、無関心で今何が起きているかについてはあまり知られていない。一般的にチベットは中国の一部と認識されているようだが、民族、言語、文化、習慣とも中国(漢民族国家)とは異なり、7世紀頃から殆ど独立を保ってきた敬虔なチベット仏教徒の独立国であった。

 1950年、共産主義国家となった中国は「チベット開放」を名の下に大軍で進撃しし、当時侵略を恐れて鎖国政策を取っていた東チベットに進行した。4万人の中国兵は物理的に抵抗する能力を持たないチベット軍を圧倒し、1951年、中央チベットを制圧して全土を中国の支配下に置いた。その後2万人の人民解放軍がラサに駐屯し、これは当時ラサ人口の半分にも達した。その後は600万人だったチベットの人口は今や750万人の中国人が流入し、やがて45万人の難民がヒマラヤを越えてインド、ネパールなどへと亡命した。ある意味では民族浄化と共に、人口爆発のはけ口としてチベットを利用しているようにも思える。

 この様な明らかな侵略に対し、インド、アメリカを初めとする国際社会は中国を非難したが、西洋諸国は当時朝鮮半島情勢に気を取られていた為、悲惨な状況にあるチベットを見捨てた。現在、日本政府も中国と国交を回復したことも有り、あまり利害関係のないチベットには見向きもせず、中国とのトラブルを避ける為に頬被りをした状態が続いている。

 その後はまったく交渉なしで1951年、屈辱的な「17条協定」を強引に受諾させ、しかも一方的で条約を守らず、厳しい圧政と徹底した弾圧で中国化を図って既成事実を積み重ねていった。「宗教は麻薬に等しい」という毛沢東主導の無宗教国家の中国は、チベット仏教を否定し、貴重な金属で出来た仏像などは持ち帰り、全土の6000ヶ所に及ぶ寺院や僧院を徹底的に破壊し尽した。日本だったら名だたる国宝級の神社仏閣が略奪、破壊され、自分育った故郷の寺や神社も抹殺されると同じで、国家が滅亡すると同時に民族の誇りと伝統、そして信仰が奪い取られたに等しい。

 この圧政下の1959年3月10日、中国の駐屯部隊は、兵舎内でも上演される演劇にダライ・ラマを招待した。しかし、中国側が護衛を付けずに来るように要請した為、ラサの人々の中国に対する不信感が広まり、大規模なデモが発生した。ダライ・ラマは事態の沈静化を図ったが、市街戦が始まった為側近と共に冬のヒマラヤを越えてインドの逃れた。その後ラサは戦火に見舞われ、戦車を投入した為戦闘は一方的なものとなり、多くのチベット人が犠牲になったり捕虜になった。

 その後「開放」の美名の下に犠牲者をなる人は後を絶たず、文化大革命はチベット全土に及び、何年にも渡って密告、拷問、処刑、が繰り返され、反乱が発生した時には血の粛清が加えられた。インドのダラムサラにあるチベット亡命政府は、1950年から1984年までの間に犠牲になったチベット人は120万人と発表している。

 中国はその後チベットを中国の領土と見なして、言語や宗教教育を含む地域文化を抑圧した。その結果、毎年平均2,500人以上のチベット人が、危険を起こしながらヒマラヤ山脈の国境を越えてネパールに入りし、亡命したダライ・ラマが率いるチベット政府のあるインドのダラムサラへ向かおうとしている。

 その後のチベットの行方は益々悪化の道を辿り、現在50万人とも言われる人民解放軍兵士が駐屯し、中国本土からやって来た漢民族の商人、運転手、建設・道路・鉄道に関わる労働者などが溢れているという。中国政府は人口統計上の同化政策を推し進めており、あからさまな民族浄化政策とも取れる統治を続けている。中国語の出来ないチベット人は教育の機会も奪われ、社会的、経済的な地位は弱まってきている。抵抗できない民衆の中には酒やギャンブルに走る者もおり、市内にはアジアで人口比率の最も多い娼婦の街とも言われている。中国の勧める改革・開放政策にのっとり、多くの森林が伐採されて大都市部に運ばれ、無人地帯には核廃棄物が持ち込まれたとも言われている。

 犠牲になった人は次の通り。

・戦いや蜂起によるもの           43万人
・餓死                     34万人   
・獄死・強制労働収容所での死      17万人
・処刑                     16万人
・拷問による死                 9万人
・自殺                       9000人

※餓死者とは、ツァンパを主食とするチベット人は大麦を栽培したが、漢民族の主食である小麦を無理やり転作させたが適地でなく失敗し、また多くのやって来た中国人に供出を強いられた為の死者と言われている。
この数値はペマ・ギャルポ著「チベット入門」によるものですが、その他のフランス人チベット研究者の数も100万人という数字であり、おおむね信頼できる数と思われます。

この様なチベットの事情をマスコミ各社が大きく取り上げても良さそうだが、じつは中国の言論統制の力に屈してしまっている。かつてダライ・ラマをY新聞が招待し来日した時、Nテレビ局がテレビに出演させた。しかしその事が後に中国の逆鱗に触れ、「特派員を北京から追放する」と脅され、その後はチベットの件に日本の 大新聞は、ただ沈黙を守ったままになっている。

自分は残念ながらチベットを訪れた事は無く、たまたまヒマラヤ登山を通じて関心を持ったに過ぎない。しかしまだ中国側からのヒマラヤ登山が解禁されていなかった頃は、スゥイン・ヘディンやテイルマンの本を読みふけり、禁断のチベットに想像を掻き立てられた古いタイプの人間だ。多くの未踏の山域が広がるチベットは慕情の対象であった。しかし今や多くの観光客や登山者が押しかけ、大きな変貌を遂げたこの国だが、その姿とは相反し世界に見捨てられた国家の悲劇が存在する事に心を痛めます。思い出せばかつて登山隊のサーダーを勤めた、ペンバ・ノルブの若くて綺麗な奥さんはチベット難民だった・・・。


【カトマンズIPS=マーティ・ローガン、10月9日】
        
http://www.janjan.jp/world/0610/0610223216/1.php

 
■ 10月20日(金) 「朝日連峰水源の沢」

 先週、天童のアウトドア用品店「マウンテンゴリラさん」に立ち寄り、「朝日水源の沢」という1冊の本を買い求めた。この本の著者は日本を代表する沢屋さんの宗像兵一さんという方で、山岳雑誌「山と渓谷」や「岳人」の沢の記事によく登場する著名な方です。私は残念ながら面識が有りませんが、東京で沢登り専門の社会人山岳会「逍遥渓稜会」を立ち上げ、およそ30年に渡り朝日連峰の沢を極められた方です。現在は沢登り専門学校の「渓友塾」を経営されている様です。

 本の内容は朝日連峰の沢登りの記録の集大成ですが、まず手に取ってみた時の分厚くて重い感触、そして開くとその記録数の膨大さと充実した記録、そして実に詳細な遡行図の数々に驚かされた。本は367ページに及ぶ内容で実に106本の記録が有り、豊富な写真と遡行記録には圧倒されてしまいました。今回は400部限定の自費出版という事ですが、構成も立派で流域の分類も解り易くて読み易く、全体的に実に丁寧な創りの本だと思います。頒布価格は¥3000となっていますが、この内容では某有名出版社なら\8000位を付けてもおかしくはないと思います。店主に話を聞いてみたところ入荷した10部は私で完売してしまい、意外な事に沢登りをされる方以外のお客さんが多いとの事でした。

 今まで朝日連峰沢登りの単行本での記録集はおそらく無く、白水社の日本登山大系の記録などを参考にしていた方も多いと思います。事実自分でもそうだったが、ただこの記録は下部本流筋の記録は無く、稜線から下降して上部の詰めの部分だけを登った記録で、本来の沢登りの記録とは言えないところが有る。しかも大雑把で正確さを欠いており、記載されていないゴルジュや滝なども出てくる。おそらくまだ雪渓の豊富な時期の遡行だったのではないだろうか?

 朝日連峰、飯豊連邦は山域が実に広大で、沢登りの対象となる沢は膨大な数に及び、その主要な沢を踏破するだけでも、並外れた努力とモチベーションそして組織力が無ければ不可能だ。常に意欲的な新人を鍛え上げ、ハイレベルな遡行を実践し続ける事は、よほど多くの沢屋さんを魅了する実力と人望があったと思います。自分のようなアルパインクライミングからの転進組にはとても及ばない、スペシャリストとして沢に対する深い畏敬の念と誇りが感じられます。そういう意味では「朝日の沢の金字塔」または「朝日の沢のバイブル」といっても決して言い過ぎでは有りません。

 それにしてもこれほど「記録の重要性」を感じるのも他に有りません。これほど詳細で正確な記録を残すとなると、大変な手間と膨大な時間を要します。出版まで6年余りの年月を掛けたそうですが納得です。
一般的に記録を残したりする事が不得手だったり、その発表のに抵抗感を感じる方も少なくない様です。しかし記録は単に自分自身の日記という意味だけではなく、読者に情報、感動、競争心を与え、何がしかの影響力を持つはずです。読む読まないは本人の勝手ですが、最近のネット社会では書く人より読む人の方が関心が高く、また読まれる機会も多いのではないかと思います。特にネットでの情報量の少ない東北の沢の記録はなおさらと思います。そういう意味でより多くの方の記録を期待したい。自分など遠く及びませんが、山屋としてこの様な記録の集大成を残す事は理想であり目標としたい所です。

ただ、個人的にはあまり記録が無くて人の入らない、期待と不安、そして意外性が支配する沢登りの世界が気に入っていますが・・・。

 ■9月13日(水) 沢屋天国の仙台

 毎年この時期はすっかり山は遠ざかってしまい、月1回の沢登りだけは死守しょうとしたがこれも次第に危うくなって来た。今年の夏は雨が少なくて水量の少ない沢は迫力に欠けるが、むしろ朝日山系のエリアなら雪渓も落ち付いてきてむしろ登り易いかも知れない。

 しかし最近の沢を歩いて思うのは他のパーティーに会う機会が少なくなった事だ。自分らで選んだ沢は比較的ポピュラーな沢で、ひどく困難な沢でもなくまたアプローチにも恵まれている方だが、沢の中で他のパーティーと出会う事は少ない。静寂を好む私としてはむしろ喜ばしいのだが、でも殆ど人気の無い沢も何か物足りない。原因はどうも沢屋サンの人口が以前と比べ少なくなった事と、情報不足の為か特定の沢のみしかトレースされない為だと思うのだが。

 20〜30年ほど前の山岳会では沢登りは必ず教育プログラムに有り、岩登り(アルパインクライミング)、冬山、山スキーが必須の科目だった。例えば仙台の山屋さんは春の鎌倉山での岩トレに始まり、夏の沢登り、秋は黒伏山、猿岩などのクライミング、冬は山スキーという様な年間スケジュールが常識。つまり沢登りは山岳会の活動の基盤をなす要素であって、逆に言えば会山行という名目の半強制的な山行スタイルだったし、またそれが当たり前と思っていた。つまり良くも悪くも会に入った限りは団体活動が当然で、勝手に好き嫌いを言える雰囲気では無かった。したがって仙台での沢屋人口は多くて裾野も広く、あちこちの沢で他のパーティーと遭遇して賑わっていた。また今のよう極端に人気の集中する沢もなく、各自の技量とメンバーの編成により幅広いエリアに活動の場が有り、また地域研究などでクリエイティブな活動を行う山岳会もあった。

 でも最近は時代の変遷と共に様変わりし、フリークライミングあるいはインドアクライミングなどの選択肢が増え、沢屋サンは次第に少数派へと転落していった。特にフリークライミング志向の強い人のには、滑る岩、泥まみれで不安定草付き、鬱陶しい薮との格闘は嫌われ、最初から相手にされない雰囲気がある。それに伴って次第に高齢化が進み、一時は沢登り=中高年の世界というイメージさえあった。

 まして沢登りはフリークライミング等と違い、気軽にスクールに入って始める事も難しく、また受け入れてくれるところも少ないので取っ付き難い。いまさら山岳会の門を叩くのも億劫だしまた山岳会も弱体化している。かつての沢屋サンは私と同世代位の方も多いと思いますが、現役を退いた後は後継者が育たず、世代間のギャップが開いたのだと言う気もします。勿論今でも活発な活動をしている全国区の有名な某山岳会も有るが、会報は出ている様だが残念ながらネットに流れていない。

 残念なのは沢の持つ素晴らしさと感動を紹介する機会が少なく、特に若い方の興味を引くきっかけが無いのは残念です。特に東北に限っては山歩き系のサイトは多くなって来たが、沢情報を発信するサイトはまだ少ない。仙台などでは沢を登っている方は少なくないと思いますが、その割にはブログを初め記録を見ることは稀。自分でも沢山行が少ないのであまり言えた事ではないが、殆ど自己満足のつまらぬ記録でも何らかの参考になればとればとも思う。

 考えてみればここ仙台は沢屋、釣師にとっては実に恵まれた環境だ。早朝に自宅を出発すれば日帰りには十分間に合う。蔵王、二口、栗駒、虎毛、神室、船形などの手頃な沢を初め、本格的な朝日、飯豊は高速を使わず2〜4時間の距離。高速を使って北に足を伸ばせば焼石、和賀、白神なども苦にならないようだ。地元にいると以外に気が付かないがここは沢屋天国で、かつて宇都宮にいた時は時には仙台が羨ましいと良く言われた。

 最近の東北の沢は地元勢が影を潜め、首都圏からの沢屋サンが一部の有名な沢に押しかけ、雑誌情報などには特に敏感になっているらしい。マイナーな沢を好む地道な会も有るようですが、有名な沢以外にもまだまだ素晴らしい沢が多く、もうちょっと情報を集めて頂きたいとも思う。そういう意味では元気な地元沢屋サンからの、情報発信力の優れたネットの活用を期待したいものです。




 7月27日(木) 岳人8月号 沢登り特集 瀬畑雄三氏


 最近の山渓と岳人を見比べてみると、岳人編集部の奮闘に軍配が上がる。最近になって岳人の編集長が替わったようだが、これだけでこんなにも読み応えが違ってくるものかと感心してしまう。山渓に対して岳人の発行部数がどれだけかは知らないが、毎月ワンパターン記事の山渓に対し、毎回ジャンルを替え、また違った視点から編集されている岳人は内容が濃い。

 また、毎回同じような顔ぶれの執筆者とは異なり、知られざる影の実力者、殆ど情報が希薄な地方の山岳会、山屋さんの最新情報、記録など、意欲的な姿勢に共感を感じる。毎回1時間半の立ち読みで済ましている私は、あまり偉そうなことは言えませんが・・・。

 その中で瀬畑雄三氏の特集が組まれていて興味深かった。山好きの方でこの方の名をご存知の方は少ないかも知れませんが、渓流釣り雑誌等には良く登場する方で、釣り関係者の間では特に著明で、いわば源流釣り関係者の間ではカリスマ的な人。この方は年齢66歳にしていまだ現役の釣り氏で、過去50年程に渡って全国の源流を歩き廻った、渓流釣り界の生き証人でもある。つまり当時山菜取りとかマタギしか入渓したことない沢、あるいは人跡未踏の源流などを、最初に歩いた沢歩きのパイオニアなのだ。

 私はかつて宇都宮にいた時、地元の渓流釣りクラブに4年間在籍させてもらったが、瀬畑氏はこの会の創設者でも有った。幸いにして早出川で2回同行させて頂き、シーズンオフには茸取り&宴会で度々お会いしていた。この方今でも源流に入るとロープを引きながらトップで激流の釜に飛び込み、滝も先頭に立って乗り越えてゆく。テンカラ釣りでは古来の日光テンカラを今の様式に発展させ、卓越した釣りの技術はもちろんの事、経験から身に着けた奥深い渓、魚、山菜、茸の深い知識、実にシンプルで合理的な生活技術など、教わることは多岐に渡って素晴らしい。

 例えば遡行スタイル。トレードマークの笠に修行僧のような様相、白いあご髭を蓄え、一目見てその人とわかる風貌。登攀用具のたぐいは殆ど持たず、腰には自転車のゴムチューブを巻き、足元は鮎釣り用の渓流足袋。懸垂下降は片手で操作できる独特の肩がらみ方式で、今時常識のATS、エイトカンそしてハンマー、ハーケンさえ持ち合わせていない。

 生活スタイルといえば、コンロや燃料は一切持たず、飯盒を使って全て焚き木で済ませ、食料は小麦粉、生米、醤油、味噌、テンプラ油などの最小限度の調味料等のみ。つまり魚、山菜、茸などが全てのご馳走でありツマミでもある。

 例えばビバークに着くと担いできたブルーシート(3.6m×5.4m)でコの字型の立派な家を作り、平らな石の上で釣竿を麺棒代わりに小麦粉でうどんを打ち、岩魚のガラで作った麺つゆで頂く。岩魚、山菜料理も多種多様なことは勿論、翌日は朝食で残ったご飯を酢飯にして持参し、昼は釣った岩魚で豪華な握り寿司を握って振舞う。ちなみに小麦粉1.0kgあれば一人で3〜4日位過ごせると言う。実際ザックは驚くほど小さく、これは山行日数が長くなってもあまり大きさは変わらないそうだ。このスタイルはおそらく4〜50年前と殆ど替わることは無く、渓の大自然を知り尽くした瀬畑氏でしかなしえない、独特の登山スタイルであり人生観そのものなのだろう。

 この方は渓流釣り氏と思われそうだが、実は険相で知られる早出川、黒部の北俣川、または会津山塊など、開拓期には稜線まで詰めてとなりの沢を下り、また次の沢を上り詰めるというスタイルをとっていた。数多くの山越えルートを開拓し、今でも多くの釣り氏、沢屋が利用している。つまり釣り氏でありまた卓越した遡行者でもあった。今でも同行メンバー釣り氏が殆どだが、日本を代表する沢登りの権威の方とも広く面識が有り、沢屋関係者からも認知されている特異な方だ。

 瀬畑氏の話を聞いているだけでその生き方に引き込まれて行き、素晴らしい別世界を共に旅している様だ。山登りでは辛いことも少なくないが、自分とは違った多くの人との出合が楽しいし素晴らしい。中には素晴らしい人格、人生観を持った方と出会うことが有り、自分の人生にも影響を受ける事もある。抜きん出た実力の方と出会うのは素晴らしいし、自分も少しだけでも近づきたいという気が起きてくる。

 この方は初心者でも気軽に同行を共にする気さくな方で、日本全国には数多くの愛弟子が存在し、多くの人から尊敬され親しまれている。最近はすっかりご無沙汰しているが、頂いた自作の3本撚りのテンカララインは宝にして持っている。ただ、私のレベルでは6.0m(普通は3.6〜4.5m)のラインで正確に飛ばす事など出来ず、息子さんから頂いた4.5mのラインを大切に使っている。



 7月19日(水)  ヒマなときに読んだ本

     アンナプルナサウス C1 1975年9月

 
最近の長雨の日々にはうんざりですが、山からもすっかり遠ざかりウダウダした平凡な暮らしを送っています。試しに体重計に乗ってみるとやはり1.5kgのオーバーで、中性脂肪が日に日に体にまとわり付くような気分で憂鬱です。

インターネットで色々やっていると本を読む機会が減ってしまい、最近は本屋で山の本を買い求めることなどすっかり無くなった。本屋に寄っても「立ち読み歓迎」を良いことに、山の雑誌は立ち読みに限るとばかりでヒマ潰しの日々が長かった。もともと立ち読みには私の得意分野。ちなみにかつて東京での某スポーツ用品メーカーの営業マン時代、サボリにサボって新宿の紀伊国屋書店で、山の単行本を3度ほど立ち読みで「完読?」した実績が有ります。

最近およそ15年ぶりに買い求めた本が有る。「エベレストから百名山へ」重廣恒夫著(光文社2003年)。この重廣恒夫氏とは、ヒマラヤ登山に関心のある方であれば誰でもご存知の人で、日本山岳会を中心とした数多くのヒマラヤ登山隊を率い、多くの8000m峰のバリエーションルートの初登攀を成し遂げた方。しかも自らエベレスト、K2、カンチェンジェンガを初めとする困難なルートを完登した、世界的にもトップのクライマーでもある方。

この方はカリスマ的存在の小西政継氏とか、国民栄世賞の植村直巳氏とは異なり、華々しくマスコミに登場する事は無く一般的にはあまり知られてい無いが、日本のヒマラヤクライミングのレベルを世界トップレベルに押し上げた、日本山岳界の素晴らしい功労者として知られている。

この本の内容は登山隊の隊長としての高度かつ困難な責務と、自信がクライマーとしての死線を彷徨うような過酷なクライミング、そしてまったく意外な日本百名山へと大きく舵を切って行く過程が興味深い。特にエベレスト北壁初登攀での臨場感ある記録は素晴らしく、本人にとっても実に考え深い登山だったと思う。あまり飾り立てた文面でもなく、率直ながら困難を極める山登りの中から、山の楽しみ、山登りの醍醐味を見事に伝える本に思える。山が人生や夢と等価であった時代の面影が本書から感じられる。今まであまり伝えられる事の無い、知られざる壮絶な物語が描かれている。

この本は実に懐かしくもまた、時代の変遷を強く感じさせる現実でもある。かつての田舎山屋の私達でも、レベルとスケールの違いは途方も無い落差があったが、少なくても気持ちだけは同じで似たような目的意思を共有しながら登っていた。いわゆるヒマラヤ至上主義で、山はもちろんの事、実社会でも山を中心に全てが廻っており、仕事を取るか山を取るかという極道的な世界。仕事を取った良識のある人間は次第に戦列から離れていき、今思えば家族、会社の方には多大な迷惑をかけっ放しだった。

しかしこの方は素晴らしいサラリーマン人生を送った方で、オニツカ(現アシックス)に勤務されながら、17隊もの数に上るヒマラヤ登山隊に参加している。しかもその個人負担金の多くをを会社からもらっているという実に羨ましい方。通常この世界では考えられない優遇で、よほど仕事が出来てで会社の評価も高く、しかも人望があってまた上司に恵まれた方なのだろう。ただそれだけではなく直接社長に直訴する位の実績と度胸があったからではないか。私もかつて一度だけは会社に目をつぶてもらった事はあったが、二度目となると即退場処分が目に見えていた。しかもこの方日本百名山を123日で完登するに当たり、会社にアウトドア事業部キャンペーンの一環として企画書を持ち込み、結局会社の全面バックアップの末達成してしまう。私から見れば理由はどうあれ、自分自信が登りたかったから登った様に見えるのだが。

こういう事ををいまさら考えてみると、山登りでも仕事でも結局最後まで諦めずやり通した人のみ栄冠が輝くという事実で、途中で弱気になったり中途半端に終わってしまう我々とは人間が違うと感じる。時間がたつと後は後悔だけが残り、内輪で呑んだくれた時には単なる昔話だけで盛り上がるという事になる。気が付いたときには自分の気力、体力が低下し、あの時登っておけば良かったと後悔する。それだったら自分の実力にあっただけの山登りでも、後で納得する結果を伴う様たまには真剣になってみる事も必要だろう。




 7月8日(土)  パチンコ


 
※フィットフェルト締め具 画像は「天然食館」さんサイトから転載させて頂きました。

 「パチンコ」 山スキーヤーでこれをご存知の方はど位いるだろうか?パチンコとはまたの名を「フィットフエルト」とも言う。この締具は革製のバンドにフック式の金物を取り付けたもので、ヒールフリーで登山靴、スキー靴、またはゴム長靴でも使用できる便利な代物だ。フィットフエルトもご存知の方は少ないだろうし、もしご存知であれば少なくても私より年代は上の山スキーヤーでしょうか。

 自分は長年山スキーをやって来て、ある意味でラッキーな体験をした一人と思っている。いま使っているビンディングは多機能、かつ高性能のディアミールだが、ここまで至る間の変遷は実に長い。これは子供の頃の遊び道具を含めての話だが、山スキー関連という考えからすると次の様になる。パチンコ(フィットフェルト)→カンダハー→ジルベレッタ100?(初期のワイヤー式)→サレワツアービンディング→ディアミール。

 ディアミール以前はあまり山スキーをやっていなかったので、当時山スキーで主流を占めたジルベレッタ400系を使ったことはなく重要な部分が欠落しているが、それ以前のパチンコとカンダハーには色々とお世話になった経緯がある。えらい大昔の話も同然でこうしたかつての愛好家はきわめて少数派だろうが、自分にとってはスキーの変遷を辿る上で貴重な経験と思って実に思い出深い。

 フィットフェルトとの最初の出会いは小学生1年生の頃、ゴム長靴に単板スキーに竹のポールというスタイルの時代だった。板にはエッジなどは無く、ソールも今のようなポリポロピレン製では無く木にラッカーを塗った安物だった。購入先はスポーツ店などではなく、近くの金物やとか本屋などで買った思い出がある。要するにスポーツ用品でもなく、生活に直結したした用具でもない、単なる遊び道具、要するに「おもちゃ」だった。

 この単なるおもちゃの締具なだが、実は今の山スキーの基本的な要素を含む多くの思い出がある。子供の頃はといえば山奥暮らしで、冬になると子供の遊びばソリとスキーが唯一熱中できる時間だった。近くにスキー場などというものは無く、フィールドは裏山の伐採地跡とか杉の植林地で、もちろん踏み固められた斜面などは無く、自分の板で踏み固めてコースを作るのが常識。

 スキーは直滑降オンリーでターンする知識も技術もなく、ひたすらスピードを出す事とジャンプごっこをしてはしゃいでいた。そして同じ斜面に飽き足らなくなると雪を掻き分けて山のてっぺんを越してゆき、次の山の斜面を物色してコースを踏み固める。山を越した時の新しい発見と驚きに心が躍り、ジャンプ台を作って飛んだ時は興奮物だった。わずか5〜10m位だったろうが20m位は飛んだ気分になって有頂天だった。散々転んで全身雪まみれになりながらも深雪との戯れの時の感触は楽しく、それは今の山スキーでも同じだ。このスキーによって子供の頃の活動フィールドは格段に広がり、雪に閉じ込められたような辛い暮らしの中でも、子供たちにとってありがたい自然の環境だった。

 このヒールフリーの便利なこの締具こそテレマークスキーの初期スタイルであり、滑りにジャンプ、それに雪山を縦横無尽に歩き回れるスキーは、ソリ遊びと違って無限の可能性を持った夢の様な遊び道具でもあった。たとえスキーシールなど無くとも階段登行で殆ど斜面は登り切る事が出来た。今思えばこうした雪山での思い出が摺り込まれ、今の山スキー道楽に通じているのかも知れない。おそらく自分に限らず、東北を中心とする雪国生まれのご同輩には共通する経験、思い出ではなかろうか?
今年の1月に亡くなられた故、三浦敬三先生が八甲田で見事なパウダーのツリーランをされている映像を見た事があるが、おそらくこのフィットフェルト時代のものではないかと思う。ここまでに辿り着くスキルは相当高度なもので、すっかり用具に頼り切った我々のレベルとは無縁の物かもしれない。

 ちなみに自分の夢は自衛隊ご用達のあのウロコ付きの板で、南屏風のパウダー斜面をウエーデルンで下る事です。何とかあの板を調達する方法は有りませんかね?




 
■6月16日(金)  エベレストの噂話


アンナプルナサウス 7219m (ネパール) 1975年 本屋でいつもの立ち読みをしてロクスノ(Rock and Snow 山と渓谷社)と言う雑誌をパラパラめくってみた。いつもの内容はフリークライミングとボルダリングばかりで、元アルパインクライマー崩れの自分には殆ど興味がない雑誌だが、最近はセロ・トーレ(南米の困難な岩峰)の記録とか、ヒマラヤの情報なども登場して思わず読み進んででしまった。

 その中で今季のエベレスト登山の顛末が載っていたが、ヒマラヤ登山の大きな変遷ぶりには驚いてしまった。ヒマラヤと言うとそれ=エベレストのみと勘違いしている人(山屋さんも含めて)も以外に多いが、このエベレストが他の8000m峰と際立って特異な存在となっている。その訳は今年春の登頂者が中国側136人、ネパール側146人(トータル282人 シーズン最後にはトータル500人を突破)にも上り、累計の登頂者数では3000人に近づいているという最近の状況だ。1953年にエドモンド・ヒラリーが登頂して以来53年、その当時誰がこのような数字を想像しただろうか。ちなみに日本人の登頂者は今年の春季は9名、累計では春季106名、秋季18名、冬季10名のトータル延べ134名(実数120名)。また、遭難死者は累計で196名、日本人6名となっており、日本人の登頂者に対する遭難死者数は5%に達している。

 このエベレスト(ネパールではサガルマータ、中国ではチョモランマと呼ばれる)は東西南北に渡って10数本のルートが開かれているが、最近はバリエーションルートを目指す隊は極めて少数派で、殆どの隊ががノーマルルートのサウスコルルート(ネパール側)と、北稜(中国側)で占められている。かつて許可は1シーズン1隊のみという厳格な時代もあったが今やシーズン制は撤廃され、外貨獲得を最優先させる中国、ネパールともお客さんの争奪戦のようにして大判振るまいし、両国とも20〜30隊が押し寄せるドル箱地帯となっている。

 最近話題の公募隊が増加傾向に有り、お金を払えばシェルパがクライミングはもちろん、高所での荷揚げや生活全般にわたって面倒を見てくれるシステムが常識となっている。つまり人並みの体力があって天候に恵まれ、運さえ良ければフィックスロープに導かれて頂上にたどり着くことが出来る。

 しかしこの様なヒマラヤ登山でもその年の天候に大きく左右され、悪天候で登頂率が20%などと言う事も有り、それに伴って多くの遭難者が出ることも有る。この点では2〜30年前の頃となんら変わることは無く、雪崩れ、滑落などによる死亡率は国内山行と比べてきわめて高い。自分がかつてインドヒマラヤで活動した年、この界隈だけで100名の日本人登山者が入山し、15名が死亡したという例も有った。

 しかし、エベレストで起きている遭難事故は少し趣が違うようだ。天候に恵まれた日のアタックでも行動不能になり、途中で力尽きてしまう例が多いようだ。このプレモンスーンは中国側、ネパール側で計10名人(シェルパも含むと思われる)が死亡したと言われ、過去最悪の事態となっている。今シーズンは天候に恵まれ、多くの登山者が山頂を目指したが、山岳関係者は「この好天が多くの登頂成功をもたらすと同時に悲劇の原因にもなっている。天候がもっと悪ければ、登山隊は途中で引き返していただろう」と指摘している。

 高所順応の失敗、渋滞による酸素ボンベの酸素切れ、サポート体制のない無理なアタック、天候判断や時間配分の誤りなど、少しのミスが致命的な結果を生んでしまう。山頂近くまでフィックスロープが張られ、技術的な難しさはあまり無いとはいえ、超高所での行動が引き起こす危険性はまったく変わっていない。

 最近は特にあまり予算を掛けない登山隊に事故が多く、しっかりとした体制の登山隊が登頂を犠牲にして救助に廻るというケースも有るとか。また、頂山直下で動けなくなった登山者を誰も救助しようとせず、登頂してそのまま下山してしまうパーティーが多かったようだ。確かに超高所では自分の命を守るだけで精一杯で、他人を助ける余裕など無いのが現実だろう。場合によっては自分にも死の危険性が迫ってくる。それぞれが自己責任をまっとうすると言う意味では間違っていないかもしれない。でも、この様な極端な例はヒマラヤ広しと言えども、エヴェレストでしか起こり得ないのではないでしょうか。実に殺伐とした狂気の世界にも思えるのですが。

 まあ、この先ヒマは出来ても資金のめども立つはずも無く、組織もコネクションも無いわが身には無縁の出来事ですが・・・・。


5月15日 清太君のお友達?


 皆さんは朝日連峰 竜門小屋の「清太君」をご存知ですか?
彼は地元西川山岳会の皆さんとはお友達付き合いをしている様ですが、夜な夜な小屋に遊びに来てちょっとしたいたずらをした後、朝方になるとひとり寂しく帰ってゆく方の様です。

 この前の5月4日、単独の登山者と以東小屋に泊まったが、1:00AM頃に物音がするので目が覚めてしまった。音は1Fから聞えるが壁をノックするような音が3〜5秒くらいの間隔でする。最初は今頃遅れて小屋にたどり着いた登山者かと思ったが、強風のこんな真夜中にそんなことが有る訳が無い。1Fは周りが雪に覆われているはずだし、風のせいで音がするのなら屋根や2Fの外壁から音がしそうなものだがそうではない。音は「コツ コツ」としたはっきりした音で、この小屋の先住民のネズミの音とも違う様だ。
        
 約1時間ほどじっとして聞いていたが、2:00AMに時計を見た後は寝込んでしまった。もう一人の方はすっかり寝込んでいる様子で、自分でも不気味な感じはあまりしなかったが、今思えば焼酎でも飲まして正体を見ておけば良かった。ちなみに翌日は一人で宿泊したが、大変な暴風雨の夜にもかかわらず姿を見せる事はなかった。「太郎君」と呼んでおきましょう。




4月21日 忘れられた岩壁 朝日連峰 障子岳東面スラブ


 1ヶ月位前の話だが、田舎の物置を物色していたら山と渓谷社がかつて発行していた「岩と雪」No.9〜128号(古い号は5部ほど欠けている)がそっくり出てきた。
今の現役クライマーの方はもうご存知無いかもしれないが、かつて日本のアルパインクライミング、ヒマラヤ登山を根底から支え、その当時の日本人クライマーのレベルを世界トップレベルまで押し上げる媒体となった雑誌だ。この雑誌なくして今の日本登山界は育なかったといっても言い過ぎではない。

 今やフリークライミング・ボルダリングメインでければ雑誌にあらず、アルパインクライミング、ヒマラヤ登山などの雑誌ではまったく相手にされず商売にならない。当時夢中になっていた中高年山屋としては実に寂しい限りだが、いま拾い読みしてみても当時の山屋の熱い情熱が伝わってきて面白い。その当時、中央の情報はこの雑誌のみからという様な田舎仙台の人間は、発売されるとむさぼる様にして読んでいた。

 そんなレベルの高い記録ではなく遠い昔の話で恐縮だが、41号に「朝日連邦・障子岳東面開拓」(1974年7月の記録)という記録が有る。「仙台海外登山研究会」というえらく大げさな名前で気恥ずかしいが、自分もそのメンバーの一人として記録を書いていた。

 東面スラブは高度差250〜300m、幅700mあまりの花崗岩のスラブ岩壁だが、その当時はフラットソールの靴など有るはずも無く、ビブラムソールのいわゆる「ドタ靴」で開拓した岩場だった。ルートは8本程開かれ300〜350m位の長さ。今となっては登山スタイル・価値観も大きく変化し、このようなルートはグレードも下がって誰も登る人などいない。しかし東北では稀な明るく乾いた花崗岩のスラブ壁は快適で豪快。スラブ壁につき物のいやらしい草付きや面倒な藪こぎが一切なく、東北地方では珍しいスラブ群だと思う。今のような高難度を追求するようなフリークライミングとはまったく次元が違い、沢登りとも言えないクラッシックなスタイルだが、それなりに価値が有る登山行為と今でも思っている。

 最近は沢登りなどぼちぼち再開しているが、その延長で機会があれば新緑の時期、叉は紅葉の時期に一度訪れてみたいと密かに思っている。グレードの高さとか、ムーブの難しさなどはどうでも良く、ただひたすら駆け上がるようにして登り切る事に興味が有る。今はその様な力は残っていないだろうが、マイペースでも自分のレベルに応じた登りも結構楽しいように思える


 4月12日 飯豊連峰スキー登山の歴史


 最近、飯豊連邦の山スキーはご無沙汰しているが、今度の春には実現したいと思っている。飯豊連邦は朝日連邦に比べアプローチにも恵まれ、3月〜5月頃には多くの山スキーヤーが訪れている。3月頃でも1日で三国小屋に入れるという環境は山スキーヤーにとっては実にありがたい存在なのだろう。

 このエリアは新潟のヤマスキーヤー、または会津山岳会を初めとするパーティーによって多くのコースが開拓され、尾根はもちろん沢筋も殆どトレースされ尽くしている感が有る。正月の厳冬期といえども全山スキー縦走がなされており、かなりハイレベルな記録が残されている。

 しかし意外にも自分の身近にかなり貴重な記録を残した先輩方がいた。以前在籍していた仙台山岳会の先輩になのだが、今から36年位前の1970年頃、の3月、飯豊連邦横断の記録を残している。コースは水晶尾根を登って大日岳に登頂し、その後山からダイグラ尾根を下降したものだった。その間約3週間はオール雪洞、そしてスキーを使っての走破記録であった。

 当時は東北大学山岳部が7回目の試みで冬の水晶尾根を始めて完登し、大日岳に登頂しているようだが、この記録はその直後に達成されたもので、冬の飯豊連邦の初横断記録だろうか?しかも下ったのはダイグラ尾根だからその価値はさらに高い。

 その当時の社会人山岳会がどうしてこんな長期の山行が出来たか不思議だが、今となってもこれを実践できる人はそんなに居ないだろう。(元祖山屋フリーターだったらしい)当時のスキーは札幌秀岳荘の単板スキーだったようで、歩きの道具でありいざとなれば燃料となる代物だったらしい。

 今では冬山登山の価値観、山行スタイルも大きく変わり、このような山行は過ぎた歴史の一コマという存在かもしれない。しかしその当時の熱い情熱と行動力は実に高く、とても今の我々にはマネの出来ないスケールの大きい山行だ。その後こういう先輩方が初期の社会人ヒマラヤ遠征隊を組織し、ネパールヒマラヤ未踏の高峰へアタックする原動力となっていった。

 最近になってこの当時のSさんと再会するようになったが、この記録以外にもその後黒伏山南壁中央ルンゼの冬季初登攀、利尻山東稜厳冬期登頂などの記録を残している。今はまるで死語になった様な「パイオニアワ−ク」という言葉が光輝いていた時代だったのだろうと思う。今の我々から見ればある意味で幸せな時代のように思える。




2月27日(月) 金沢 早川先生の雪崩れに関するコメント



 
私は3年ほど前から山スキーMLに参加させてもらっていますが、全国の最新の山行記録といろんなコメントが投稿されており、大変興味深くそして大いに参考にさせてもらっています。

 その中で昨年11月に投稿された金沢の開業医、早川先生の次の様なのコメントが有ります。当たり前といえばそうですがそこが大事なポイントと考え、短いながら本質を突いたコメントと思い引用させて頂きます。

 早川先生は山スキーヤーの中では大変著名な方で、かなりハードな日帰り山行を実践する、豊富な経験と技術、体力ともに抜きん出た方です。私は幸いにも山スキーでは雪崩に巻き込まれた経験はなく、実際その時機敏に対応できるかどうかは別ですが、早川先生の記録では時々このような場面に遭遇し、実際雪崩から逃れることが出来ているようです。

【投稿コメント】

こんにちは三浦さん 早川@金沢です。
いつも先鋭的な滑降記録楽しみに拝見させて頂いています。

このたび危ない場面でしたね。折角の問いかけですので三浦さんに対しておこがましい気もしますが僕が普段考えている雪崩対策について少し触れてみます。
過去の登山史を見ても明らかなようにどれだけ優れた登山家もほとんどが雪が原因で命を落としています。雪だけはどれだけ深く考えてもどうしても勝てない人の予想を遙かに超えた自然現象だと思います。これがまず大前提です。

ここ最近深沢君とコンビを組むことがほとんどですがパウダーを楽しめるような斜面では正直いつ雪崩れてもおかしくないと考えています。だから事前の弱層テストなどは少しの参考程度でそれほど大きく重視していません。それよりもどこを滑る場合でもここで雪崩れる可能性はあるかも知れないという大前提に立ってもしここで雪崩れたらどう回避するかと言うことをいつも考えて滑っています。

だから二人で斜面に入る場合はまず絶対一緒に入らない。たとえば深沢君が先に斜面に入るなら常に僕は上で監視しています。滑っている間は上からの雪崩には無警戒ですから声の届く範囲で緊急事態が伝わるようにしています。先に滑るものは常に安全地帯まで滑って、上から雪崩れても回避できる場所で待避して次に上から滑るものを監視します。だから滑る場合は大体交互に行くことになります。

このように互いに厳しく監視しあって万が一雪崩れてもすぐに逃げられる体勢をとって万が一の時もすぐに救助できるようにしています。だからガスで視界が悪い時は特に注意して互いが監視できる視野の場所までしか滑らないようにしています。

また上に人がいる場合は雪崩の原因になる可能性がありますので特に気を付けるべきだったと思います。厳冬期に山で人にあうことはまず無いですが。

過去にこの監視システムで何度も危機を逃れることができました。滑りも大切ですが互いを監視しあって絶対二人が一緒に流されないように最前の注意を払っていますす。雪にいったん埋まると自力での脱出はまず不可能ですから。

この場所で雪崩れた場合どう回避するかと言うことを常に考えながら行動する。これが僕たちの基本的なスタンスです。それからビーコンを付けておくことは大切ですがその次の段階の蘇生術をきちんと実践でマスターしておかなければまず埋もれた仲間を救うことはできません。これはかなり重要な要素だと考えます。浄土山の死亡事故の場合20分で救助したとのことですが蘇生術が正しくなされたかどうかとても気になりました。

まあパウダーを楽しみに山に入る場合常に雪崩と表裏一体の関係になりますからそこのところをよく考えてきちんとしたパートナーと行動することは大切だと最近強く感じるようになりました。以前は単独メインでしたが。単独の場合はまた違う行動パターンがありますがここでは敢えて触れません。

あまり参考にならないかも知れませんが一言感想を述べました。


【早川先生のサイト】

「YASUHIROのマウンテンワールド」

http://w2222.nsk.ne.jp/~turu/


2月16日(金) 山スキーの自己スタイル


 先日の船形山は当初のあてがすっかり外れて地吹雪模様。船形山山頂には遥かに及ばず、蛇ヶ岳であっさり退却となってしまい、下りは深雪を漕ぐような激パウダーに難儀の連続。せっかくのファットスキーでもどうにもならない雪で、なんとなくくたびれ損と言う気もしないでもない。デレデレとした船形特有の尾根ではこれも仕方ない。しかし最後を決めるブナ林のパウダーランで全て帳消しとし、結構いい気分で1日を過ごすことが出来た。

 この日、途中で行動を供にした単独の山スキーヤーがいたが、この方は実にシンプルなスタイルで山を楽しんでいる方だった。革靴にゲレンデスキー板に取り付けた初期型のジルベレッタで、もちろんゲレンデ用のポール。失礼ながらこれ以上無駄な装備は見当たらないという感じだった。

 このスタイルと言うのは25年前の自分のスタイルと同じで、何か懐かしいと共に今の自分が気恥ずかしいような気がした。最近自分のスキー用具は大体整ったが、考えて見ると30年前の装備でも山スキーにはさほど支障になるような事はない。確かに最近主流のファットスキーや多機能なビンディング、驚くほど軽量化されたスキー靴など、素晴らしい滑りと走破性能を約束するGootsである。

 しかし、山スキー用具は急速に機能が向上し軽量化が進んでいるが、そのレベルアップだけスキーヤーのスキルが上がっているかと言うとそうではない。例えばかなりテクニカルなスキーヤーに30kgのキスリングを背負って滑れるかというと疑問だ。実際こんな事をして滑っている人はなくその必要もないが、肝心なのはそれだけバランス感覚を磨いている人は最近いるのかと言うことだ。本当に技術の高い人は道具は選ばない様で、例えばスキー1級、準指導員クラスの方でも登山靴にジルベレッタで通している人さえいる。

 山スキーをやっているとどうしても転んでしまうが、転んだ時の体力消耗は大きく行動のスピードにも大きな違いが出てくる。特に転び癖がついてしまうと緊張感が薄れ、なんでもない所でも転んでしまう。何度も転べば疲れるだけでなく、スキーがつまらなくなってきて得なことはない。確かに体力が低下すれば押さえが利かず転んでしまうが、実は集中力のほうが肝心でこれはその人のスキルに通じる。

 今思えばかつては粗末でシンプルなスキー用具で歩いていたが、そのおかげでバランス感覚だけは少し磨かれて今でも役立っている。また、私の様な山スキーヤーは頂上に立ってから滑るという事が強く刷り込まれているため、荒れたシュカブラ、ガリガリのアイスバーン、手ごわいモナカ雪、膝までもぐる重い深雪など、シンプルな用具でも多くの悪条件を乗り越えないと遊びは成り立たない。

 そんな事やって何が面白かと思う人もいるかも知れないが、きれいなフォームを求めるよりはどんな雪質、どんな斜面、どんな傾斜でも滑れるという事に興味が湧く。その為には安全、確実、快適に、そして迅速にという点が重要になる。自分でも滑りのフォームにまったく関心が無い訳ではないが、自己流を通してきたのでいまさらこだわりは無い。やはり山は基本的な技術が物を言う世界なのかもしれないし、しかしそこまで極めるまでは長年の修行が必要だろう。まあ、山の中で人に会うことも少ないので、あまり滑りのフォームを気にした事も有りませんが。



2月8日(水) スキー大好き人間達


 もうすぐトリノ冬季オリンピックが開催されると言う事で、日本でも家電業界をはじめ景気浮上の期待を込めながら、少なからず注目をしている方も多いと思います。やや古い方々(私も同じ)は札幌オリンピックでの日本勢の栄華を思い浮かべ、長野五輪に続く明るい話題を期待しているのではないでしょうか?

 実際のところ自分にとってはまったく無縁の世界だが、やはりスキーに関してはそれなりに興味しんしん。しかし私ら山スキーヤーはこれがスポーツなのか叉はレジャーなのか、その見極めというか根拠ははっきりしない。確かにパウダースキーなどのテクニカルなスキーヤーは明らかにスポーツマンとも言えるが、ただ単にいつも飲んだくれて宴会中心にやっている人はレジャー叉は単に気晴らしとも言える。でも技術の向上叉は困難なコースに挑むスキーヤーと、歩くスキーの醍醐味に取付かれたスキーヤーの価値観はまったく異なるし、それをまとめて一様に評価することは出来ないし、またそんな事を価値する意味もない。

 しかし同じ雪の上に立って楽しさすばらしさを体感する人にとっては、何か共有の認識と言うか喜びのようなものが有るのではないかと思う。それは最近特に多くなった「山ボード」の方々も同じではないかと思っている。山の中は不思議なもので無雪期と違って山に雪を被ると別人格となり、なにか怪しい魅力に満ちた魔物になって我々を誘っているようにも思える。山が大荒れになると風雪まみれで散々な目にあってしまうが、3日も経つとその事はすっかり忘れてしまい、次の楽しい山行計画を立て始めている。まあ、こりしょうがないと言えば確かにそうだが、それでもあきらめ切れない中毒症状を引き起こす得たいの知れない魅力を秘めている。

 「怪我と弁当は自分持ち」。これはかなり古くから職人に語られてきた言葉だが、これはそのまま山屋を始め山スキーヤーに当てはまる言葉だ。私もかつて叉は今でもそうだが、この世界ではまず社会的な貢献などと言う事はなく、少し間違えば多くの方に負担を掛ける非生産的な行為と言われるかも知れない。少なくても本人はそういう気がなくても、一旦事故が発生してしまえば結果的にそういう状況に陥ることは否定できない。たとえ雪崩れ対策を万全に立てたとしても、結果が伴わなければ客観的な評価は同じで、そうだったら何故回避できなっかたか、叉は誰が責任者なのかと言う話になってしまう。

 一般的に山屋の世界では自己責任という認識が定着しており、故意に起こしたとすれば別だが某国営放送のメロドラマの山岳裁判などは殆どなく、お互いに責任を鋭く追及するなどと言う環境ではない。要するに明らかな指導者の過失責任でも発生しない限り、殆ど推定無罪と言う原則が働いているからだと思う。例えばクライミング中に先行パーティーの落とした落石を受けて怪我しても、また山スキーで上部にいるスキーヤーが雪崩れを誘発し、運悪く巻き込まれてしまっても裁判沙汰になったという話は聞かない。ヒマラヤの高峰を目指す登山隊では、出発前にお互い承諾書を取り交わすという事も決して珍しい事ではない。つまり山に入ってはお互いに注意義務が発生し、それぞれ危険負担を認識すると言う暗黙の了解があるからだろう。

 そういう仲間、あるいは山岳会だからこそ強力なパーテーを組む事ができ、お互いの共通認識の下で果敢にチャレンジ出来る素地が出来て来る。逆に言えば、そうしたメンバーでなければ厳しい本チャンコースに向かう事などは出来ない。まあ東北の山ではそんなに厳しいコースは少ないかも知れないが、逆に何でもない様なコースで方向を見失って行方知れずとなる方もいる。自己責任の厳しさが問われる現実でも有る。

 こんな事を言っても山屋、山スキーヤーだけが普通で、テレマーカー、スノーボダーなど「滑り」「歩き」の醍醐味をを知った多くの方を否定する気持ちもない。多くのスキー大好き人間同士が目的と価値観は違ってもても、同じ山の中の土俵で楽しんでいるからにはもっと楽しさを共有し、コミニュケーションを良くした方がお互い楽しいのではないかと思っている。自分でもあまり偉そうな事を言える立場では有りませんが、山であった時には皆さん宜しくお願いします。

 2005年


11月20日(日) 最近の山スキー稼業?

 
 なんとなく暖冬傾向の日々が続いていたが、北海道、立山、白山方面に続き、ようやく東北地方も冬の便りが届き始めた。月山の湯殿山スキー場がオープンし、初すべりの書き込みなどが見られるようです。
 初滑りといえばスキーヤー、スノーボーダーにとっては今は立山が最もメジャーな存在のようですが、ようやく月山周辺にも冬の便りがチラホラ届いているようです。自分ではここ最近山スキーにが中心になってきた為初すべりの情報には敏感になってきたが、しかしいまだに行動の方は追いついていない。以前は山オンリーの暮らしが長かったので、初雪の頃はと言えば富士山の雪上訓練が年中行事で、本番の年末山行は出来れば雪は少ないほうが良いと思っていた。北アルプスのようなメジャー山域と違って東北等は登山者の数は少なく、自力での厳しいラッセル覚悟の山行なので大雪はまったく迷惑な話でしかなかった。ましてや冬の岩壁にべっとりと張り付いた不安定な雪や、今にも雪崩れそうな.急峻な雪壁は難易度と危険度を押し上げる要因でしなかった。

 しかし趣味の立場が違えば今やまったく逆で、スキーヤーにとって雪の少ない年はまったくつまらない。しかも最近はパウダースキーの注目度が上がるにるれ多くの山スキーヤー、テレマーカー、スノーボーダーが初滑りを目指して繰り出し、有名なエリアは賑やかな祭典のような様子らしい。

 でも山屋上がりの私には立山などはあまりにも遠く、年のせいなのかまったく億劫になってしまいあまり興味が沸かない。どうやら東北の山でで育ったせいか都会並みの喧騒も苦手で、最近はまったくマイペース中心の山行が身についてしまってしまい、あまり他の事を気にする事も最近無くなった。どうも長く山屋暮らしをやって年を重ねるとマンネリ化もするが、意固地になって物にこだわる癖も付いて来るようだ。

 最近の冬山(バックカントリーエリア?)には実に様々な方が進出し、場所によってはかなりの人気でファーストトラック争いは珍しくないようだ。むしろ山屋系のスキーヤーよりはゲレンデスキーヤーから進出してきた「バックカントリースキーヤー」・スノーボーダーが増加傾向にあり、今や冬山は山スキーヤーだけの専売特許とは言えなくなって来た。考えてみればそのような事は当たり前で、これだけのすばらしい大自然を相手にする人は山屋のみとは断言できない。多種多様な方が参入してくるのは自然の成り行きで、価値観は違っても多くの方と喜びを共有できる事はむしろ楽しい。

 例えば同じエリアでテマーカー、スノーボーダーと一緒になった時、その滑りには際立った特徴が出てくる。我々中高年スキーヤーはチマチマとしたショートターンを得意とするが、スノーボーダーの皆さんは浮力を生かし、スプレーを飛ばしながらスピードのあるロングターンで一気に滑り降りる。テレマーカーの皆さんはスピードは無いが、綺麗なロングターンでパウダーを捕らえる様に快適なリズムで滑って行く。思わず惚れ惚れとする様な滑りをする方もおり、見ていても楽しいし参考にもなる。

 ただ最近の滑り重視の傾向でパウダースキーを中心に盛り上がってきているが、若いスキーヤー、スノーボーダーの皆さんと比べ、山スキーヤーの意欲的な試みが少ない様な気がする。私は最近になって本格的に山スキーを始めた為、あまり先入観は持っていないので気ままにやっているが、一般的には山岳会特有の伝統的な山スキースタイル、行動パターンが有り、あまり変化を好まないように思えますが気の性でしょうか?


9月15日(木)  山屋最大の敵スズメバチ


 ようやく夏が過ぎ去り、少しずつ秋めいた天高い空の季節になってきた。体質的に暑がりで真夏は苦手としている為、年齢を重ねるにつれ最近はこのシーズンの山行はめっきり減る一方。やはり風通しの悪い灼熱地獄の急な尾根登り等よりも、厳寒のきびしい雪山の方がまだ我慢のしようが有るように思える。しかし沢登りとなるとまた話は違ってくる。水線突破の泳ぎやへつり、頭から被るような豪快なシャワークライム、夏でさえ身も震えるような雪渓下の深い釜、雪渓下を潜るときの身の引き締まるような冷気。稜線まで至る東北の深く鋭い渓谷はそれこそ下界と全く異なる世界で、沢の魅力に取り付かれた者に素晴らしい大自然のプレイグランドを提供する。

 そろそろ沢登りの快適な時期はラストチャンスとなって来たが、しかし私は今頃の季節に遭遇したあの忌まわしい思い出が蘇る。もう7年前に遡るこの時期、私は新潟県の早出川の本流に釣り仲間7人でダム湖の登山道を歩き、上流部を目指して先を急いでいた。6時間ほど歩き続けた頃突然スズメバチの攻撃を受け、隊列を組んでいた先頭から2.3.4番目計3名が刺されてしまい、パニック状態となってしまった。

 どうやら先頭が登山道脇の地下に巣くったスズメバチの巣を蹴飛ばしたか、または大きな振動を与えてしまったらしく、気が付いた時には猛スピードで襲い掛かってきた。他の2人は腕と頭を一箇所づつやられたが、3番目を歩いていた私の場合は実に悲惨な状態で、胸に3発、背中に4発の攻撃に遭ってしまった。必死に逃げたつもりだったが興奮したスズメ蜂のスピードに勝てるわけも無く、紺色の長袖Tシャツを着込んでいた私が集中攻撃を浴びるはめになってしまった。

 興奮したスズメ蜂はポリプロピレンのTシャツにへばり付いて2〜3回刺したらしく、特に私は手痛い打撃を受けてしまった。やがて激しい痛みと腫れ、患部の炎症、痒みが現れ、徐々に悪化してくるのが解った。その痛みとはスズメ蜂特有の痛みで、上半身の前後を何か巨大な剣山でサンドイッチされたような苦しを伴った。他の2人も頭と腕の痛みと腫れはひどく、かなりのショックだった様だ。適当な薬も無かったので持っていたキンカンを何度も塗りつけ、何とか気休めとしたがその痛みが和らぐ事は無かった。結局その後2時間ほど歩いてテント場に到着したが、メンバーが焚き火で大宴会盛り上がりのとなりで、私は七転八倒の苦しみで一夜を明かした。

 しかしその時私は余り不安を感じる事は無かった。実は以前スズメ蜂には過去4回ほど刺された経験があり、おおよその経過の様子は解っていたからだ。あんまり自慢にもならない話だが、スズメ蜂とのお付き合いは実に長くかれこれ35年ほど前の中学生の頃に遡る。その当時軒下の大きくなったスズメ蜂の巣を竹ざおで落とそうとしたが、いきなり逆襲に遭って首筋に3発ほど浴びてしまった。強烈な痛みと腫れ、それと全身に1円玉位の蕁麻疹が出来て悪寒が走り、ようやく注射を打ってもらって回復した思い出がある。私の場合その後も不幸は続き、下草刈りの際に3年連続して刺されたことも有った。

 この突然襲ってくるスズメ蜂はとんだ災難だが、その後の経過は個人差が大きく時によっては生命の危機を伴う。事実私がお世話になった田舎のお医者さんによると、かつて手当ての甲斐なく亡くなった方が1名、担ぎこまれて来た女性が半ば失神状態となり、失禁を伴って重体患者となった事も有った模様。やはり子供、女性、高齢の方などは抵抗力が弱い為か、症状は特に悪化する傾向に有るようだ。年間に20〜30人がスズメ蜂の犠牲者となっていることを考えると、国内では熊、マムシ、ハブ、等よりも最も危険性をはらんだ野生生物と言っても良いだろう。

 ちょうど夏から秋にかけてに時期は巣の規模が最大となり、蜂が最も攻撃性を高める危険な時期で、言うまでもなく不用意に近づいたり、いたずら等は厳禁である。スズメ蜂が興奮状態となると威嚇なしにいきなりやって来る。不幸にして攻撃に遭った場合はとにかく素早く逃げる事。刺されそうになった時には覚悟を決め、顔、頭、首筋などの攻撃対象を保護し、低い姿勢でその場を立ち去る事くらいしか対策はない。特に髪の毛、黒、または紺色の衣類は攻撃の対象となりやすく、生地、髪の毛を通しても針は簡単に皮膚に届いてしまうので油断がならない。

 最近は蜂毒の吸引機を持参してはいるが、無いよりはましと言うくらいであまり効果は期待できないようだ。先ずは刺された個所を綺麗な水で洗い流し、患部をタオルなどで患部を冷やし、出来るだけ早急に医師に見てもらう事が最善の方法と思う。ただ過激な運動とか、または逆にその場に長時間に渡ってたたずんだりすると逆効果で、様態は更に悪化すると思われる。しかし深い山の中となると対策は皆無で、まる2日間位は痛みをじっと堪える辛く長い時間が経過する。

過去にハチに刺されて何らかの全身症状を伴った人は再度刺されると重症化しやすいとも言われ、最近日本でもではアナフィラキシー・ショックの特効薬であるエピネフリンの携帯用のもの(簡易注射器、エピペン)が解禁され、いざという時の備えとなっています。使用には医師の処方箋が必要ですが、今後は共同装備などへの考慮の必要性が有りそうです。



8月19日(金)  最近の調子ハズレのお天気にはうんざり


 この時期になっての当て外れの雨模様にはがっかりの日々。余り時間が取れないので日帰りで軽くと思いきや、天候は急変して前日夜中からの雨模様。せっかくのお盆休みにもかかわらず、きっと多くの皆さんも予定が狂ってがっかりされている事と思います。

 私の場合、長井市役所にTELして8月13日から朝日連峰の祝瓶山荘に通じる野川林道の開通の件を確認し、日帰り山行を企たもののいきなりの雨でお流れ。1年2ヶ月ぶりの開通ということで密かにテンカラ竿を忍ばせ、下手な私でもいい思いをしてみたいと目論んだのが馬鹿だった。

 しかしながら今年の飯豊連峰での遭難事故の多発には驚かされる。。7月21日から8月16日まで6件の事故が連続発生し、小国町の遭難救助隊がその都度動員されている状況。運悪く山形県の防災ヘリの「最上」は途中から機体修理のため出動出来ず、山形県警ヘリ「月山」は機体点検中で新潟県警ヘリと防災ヘリに協力を仰いでいる模様。

 事故を起こした方の大半は50〜60歳台の中高年者で占められている様だが、最近ツアー会社のパーテーが事故を起こし、なと骨折した女性を一人を残したまま現場を離れたと言う事で、地元の関係者の間で大きな論議を起こしている。私達からすればとうてい許されるべき事で無いが、15人お客に2人のアテンドしか付かなかったという事と、商売なので契約的な事情があり即刻中止とする事が出来なった模様。結局パーティーは梶川尾根の事故現場から梅花皮小屋に入り、翌日の飯豊本山方面の縦走が中止となったのは当然の判断だった。

 最近気にはなっていたが、北アルプス、南アルプスなどの中央山岳では常識になっている多くのツアー登山は、とうとう東北の豊、朝日まで押し寄せてきたと言う実感であった。一応名の通ったツアー会社なので、飯豊、朝日の際立った特殊性とその厳しさは告知されているとは思うが、果たしてその実感はツアー客に充分浸透しているだろうか?

 中央山岳と違って最近小屋は立派になったとはいえ、基本的には避難小屋の性格が強く都合の良いまかない付きということも無い。登山口の標高が3〜400m地点と低く、この時期なら取り付き地点からすぐに灼熱地獄の中で、厚いブナ林で風が通らず視界の効かないきつい標高差の有る急峻な登りを強いられる。時々確かに装備は申し分が無いと思える方でも、本当にこの先大丈夫なのか?などと失礼ながら思えてくる方も結構いらっしゃる。

 それよりむしろこの遭難に対応される地元山岳救助隊の方のご苦労が覗える。最近山形県警の救助隊が組織されたばかりの、まだ訓練中で実践配備と言う状況ではなく、地元小国山岳会を中心とするボランティアの方々力に頼りきっている。確かに天候さえ良ければヘリでのピックアップが可能だが、悪天候の場合はヘリは使えず地上からの救出となる。仮に天候が良くても救助の要請があれば地上からの別働隊も出動するので、救助隊の皆さんは何時呼び出しが来るか解らないという日々と思われます。

8月13日の天狗の庭での骨折事故では最近悪天候でヘリが使えず、救助隊が翌日石転び沢経由で現場に到達し、梅花皮小屋に収容したが悪天候でヘリでのピックアップは出居なかった。梅花皮小屋で天候の回復を待ってようやく3日目にヘリで収容されている。当事者でもない私が軽々と言えることでは有りませんが、その間の多くの労力は大変な物で、本当に頭の下がる思いがします。

 しかしながらこんな事を言う私でも、決してこの様なお世話になることが無いとは言い切れない。どんなに気力、体力、経験に自信が有っても、ちょっとした気の緩み、天候判断、時間配分の誤り、又は突発的で外的な要因(雪崩れ、天候の激変、落石、急激な増水、果てはスズメバチの襲来.etc)などの不可抗力。考えてみればきりが無いくらいの不安定要素が付きまとっている。自分だけはそうならないと思いがちだが、不幸は意外なときに突然やって来る。特に単独行のケースではその結果がより顕著に現れる。長年山屋暮らしを続けているとどうしても若かりし頃のイメージが忘れられず、自分でもそうだがついつい無理を承知で行動してしまう。アクセルばかり踏みつづけてついついエンジンブレーキを忘れてしまうのである。

 もう25年以上も前に冬の北鎌尾根の取り付き地点で滑落事故を起こし、骨折した新人を二人で1日半かけて担ぎ降ろしたと言う苦い思い出がありますが、これほど進歩した世の中でも相変わらず最後は人間の手に頼らざるを得ないと言う現実。この点は是非登山者に認識して頂きたいと思います。


※ 本文は掲示板の内容を加筆、修正したものです。

3月27日(日)  雪洞で宴会

 今年の大雪は尋常ではなく、東北南部の飯豊、朝日、月山、吾妻方面に山々は20年ぶりの記録更新の模。ピーク時には飯豊の長者原で4m、月山の志津では6mを越す積雪量を記録しており、例年の1.5〜2倍ほどの量に値する。しかし、これだけの雪であれば山スキーヤーにとってはむしろ歓迎すべき事態で、これからの春山スキーにはルートが広がり、シーズンも延びるので大変に好都合。特に標高の低い東北の山では下部で藪に悩まされる事も珍しくなく、この大雪が幸いして快適な滑降を期待したい所。

 先週の飯豊連峰、頼母木山を長者原の奥川入から往復してきたが、今回はスキーにこだわって無理やりスキーを履きっぱなしで登頂してみた。実際に効果的なスピードUPが出来たかどうかは解らないが、厄介なアイスバーンと強風に四苦八苦しながらも、何か登り応えのある満足感を感じる事は出来た。もう少し天候に恵まれれば主稜線での歩きも満喫できたが、この時期そんなに都合の良い日ばかりは中々やって来ない。

 今回は飯豊の春山スキー初心者なので偉そうな事は言えないが、本当に山スキーの活用がその価値を倍増するといって良く、飯豊連峰の山スキーに縦横無尽に数々の足跡を残した会津山岳会を始めとする、福島、新潟の山スキーヤーの功績は実に大きいと実感する。

 このような山スキー向きの山には何が似合っているかと言うとそれは雪洞である。私は過去3回しか雪洞経験は無いが、それは何れも緊急避難的なもので、ヘルメット、コッヘルを使って必死に掘り進んだビバーク雪洞であった。風雪の中2〜3時間の苦闘の挙句、シートを敷いて横になったときはもうヘロヘロ状態で、翌日の朝まではじっと我慢の長い時間帯であった。しかしこ今回は当初から計画した贅沢を極めた雪洞で、すっかり宴会の為の快適空間を確保を目的としたもので今までとは全くの別物。どんな暴風雪で有ろうが、中に入ってしまえば静寂な室内で、今までの地獄からそれこそ天国にタイムスリップした様な世界。後は準備した鍋物の材料を惜しげも無くつぎ込んでその後は至福の時間が待っている。

 頼母木山を登り終えて見ると、ここ飯豊連峰の春山スキーには雪洞と宴会が最適アイテムに思えてくる。最近雪洞を活用する山行は少ないようだが、3月の固めの雪をアルミ軽量スコップでで掘れば1時間程で完成。今まで雪洞にはマイナスイメージしか無かったが、物は考え方、活用次第でもっと見直しても良いのではと思う。今からはもっと大人の山行を心がけ、「快適」「快速」「至福」をモットーに遊びたいもの。

 2004年


11月7日(日)  山スキーに魂を込めた方々

 相変わらず雑用に追われて山に行けない鬱陶しい日々が続く。山には初雪の知らせがちらほら。そして立山での初すべりの誘いなどが舞い込んでくる今日この頃だが、自分だけはすっかりなんだか置いてきぼりを食らった様でついてゆけない状態。そんなこんなの日の気分転換にとある本をを買い求めてちらちらと目を通してみた。
 
 それは「月山無限の山スキー」というA4版 106ページの本。このタイトルが大変気に入って買い求めた本だが、残念な事に一般の書店、登山用品店などには無く、わざわざ天童の「マウンテンゴリラ」さんまで買いに走った。著者は「最上山岳会」の会長、坂本俊亮氏という方。もちろん面識は有りませんが、この本以外にも月山、朝日、鳥海、神室エリアを中心とした何冊かの本が出版されている模様です。本の内容は数ある山スキー山行の記録の中の、月山をテーマにした山スキーの記録集なのだが活動範囲が実に広く、私たちの知らない未知の尾根のツアー、あるはルンゼ滑降の記録が数多く残されている。さすがに地元山岳会の組織的な行動力と歴史、そして何より著者の熱い情熱が伝わってくるような本だと思う。

 この中で特に目を引いたのは「月山から最上峡への一筋の道45キロ」と「月山から葉山超えの32キロ」言うくだり。前者は月山から肘折温泉方面に向い、赤砂山から北上して高倉山、鳥形山、火打岳への尾根を越え、さらに虚空蔵岳から遥かなる尾根を経て国道47号線と最上川に交差する終点に至るコース。後者は月山から葉山を超え、最上川に没するへ北東に伸びる郡界尾根コース。既に両者ともリレー形式でほぼ全域の走破がなされている模様。もう一つ魅力的なコースは「朝日・月山の幻の尾根」と地元で呼ばれているコース。月山第1トンネルから尾根に取り付いて南下し、赤見堂岳を経て朝日連峰の紫ナデから障子ヶ岳を経てさらに大朝日岳を目指す。これらのコースは何れもその多くは登山道は無く、積雪期にのみ行動可能な山スキーヤーにとってはまたとない魅力があるエリア。

 意外とこの周辺の一部はクラッシクコースとして、玄人肌の地元山スキーに以前から認知されていたかもしれないが、この本からは更なるパイオニアワーク的な意気込みが良く伝わってくる。やはり未開拓、または未発表のコースを走破する気分は、その当事者のみが味わえる贅沢な境地に違いない。そこにタイトルのような「無限の山スキー」たる本当の意味での可能性が有るのかもしれない。
 
 今年、会津山岳会の会報、「すかり25号 飯豊連峰特集号」を送って頂いた。それまでの会報を集約して平成10年に出版された本だが、これも飯豊連峰の山スキーと沢登りのP285に及ぶ記録の集大成で、スケールの大きいハイレベルな内容と溢れるような記録の数々。そこにはメンバーの奥深い情熱を感じる事が出来る。やはり両者に共通しているのは、パイオニアワークが大きな原動力となって点ではないだろうか。今時古臭くて死語になったような言葉だが、忘れ去れたような今でも最も多くの魅力と可能性を持っている要素と感じるのは私だけでしょうか?そんな事を思いながら、今度こそはスキー用具の手入れでもしようと感じながら日々を送っています。



10月7日(日)  朝日連峰 沢登り

 先月、朝日の沢に入った後は雑用にかまけて山には行けずじまいの日々。結局今季の沢登りは朝日連峰、祝瓶山の大石沢、竜門山につき上げる見附川の入りトウヌシ沢、二口の大行沢、の3本のみで終了してしまった。

 かつて山岳会に在籍の頃はどちらかと言うと自分ではクライミングへの志向が強く、沢の方といえば会山行に付き合う程度の片手間商売のようなもので、あまり真剣に取り組んだ記憶は無かった。その当時の会の活動は全くの個人山行中心の主義で、決まった訓練山行と会山行、そして時々安い居酒屋での反省会に出ていれば、全体の合宿も無くあとは各自の自由。従がって山域も北アルプスの穂高、剣、鹿島槍、谷川、に向かうクライミング中心のグループと、飯豊、朝日、会津、早出川方面を目指す沢登りグループに2分されていた。

 結局のところ私の場合はハードな沢登りを実践する事も無く、現役を引退した後は長いブランク生活に入っていた。しかし年を経て最近少しずつ山に復帰してみると、なぜか沢への憧れが強くなってくる。少し岩魚釣りなども覚えて釣り目的で沢に入る事もあったが、楽しい釣行にもかかわらずどうしても充実感というか満足感が無い。やはり釣屋と山屋のカルチャーはどこか異なっており住む世界が違う様だ。釣師仲間の世界もまた捨てがたい魅力があり、面白いキャラクターを持った人間も多く、また尊敬すべき素晴らしい人生を送る先輩方も多い。

 しかし山屋生活の長い自分にはやはり体質的にどこか満たされない部分が残る所だった。やはり沢は本流から遡行して困難なゴルジュ、大きな滝、深い釜、不安定な雪渓、手強い草付きや藪などを突破し、最後の山頂に立つ事に大きな意味がある。登攀力、藪漕ぎ、泳ぐ力、雪渓の処理技術、ビバーク技術、読図力、そして基礎体力など、登山の中でも沢登りほど総合力を試される分野は他に無いのではないか?複雑に入り組んだパズルを一つづつ解いて行くような楽しみと、何かしら得体の知れない期待と不安。そして星空を見ながら河原での焚き火、山の恵みを肴にしての美味い酒。そして気の知れた仲間との語らいや馬鹿話や大宴会。年齢を重ねる毎にその感が益々深まってゆく。

 とは言っても自分も既に中高年街道をまっしぐらの身で、今更高いレベルを目指そうなどと言う気力も無ければ、体力、技術も既に持ち合わせてはいない。しかしまだそれなりに楽しめそうな余地はありそうで、日帰り、または一泊程度で比較的気軽に歩ける沢も探せば結構ある。しかもなかなか実現しなかった朝日連峰などは特にその感が強い。

 そこで思い出したのがかつて通い詰めた朝日連峰の祝瓶山周辺の沢。朝日連峰の前衛峰に過ぎない1400mクラスの山だが、頂上直下のルンゼはスラブに磨かれ、三角錐の秀麗な山容は見るものを飽きさせることが無い。比較的アプローチに恵まれ、技術、体力に応じたコースが選択できて、しかも自分好みの登攀的で明るい沢。ついでに欲張って釣も楽しめるしと言うおまけ付き。考えてみれば現役時代にとっておいた素晴らしいエリアが、今となって又とない楽しい山行を提供してくれる貴重な山。今季は終了してしまったが、あと1〜2年程は沢の楽しみを満喫してみようかと思う日々。

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