かなり古いヒマラヤの日誌


ネパールヒマラヤ ネパールヒマラヤ インドヒマラヤ
1975年 アンナプルナサウス 1975〜6年クンブ地方トレッキング 1981年 トリスル1峰 西壁ルート

                 

         
 アンナプルナサウス (7219m)  ネパール
 ■1975年8〜10月 仙台海外登山研究会 (仙台山岳会 仙台RCC 一高山の会)   
 
 当時、まだ学生の身分で社会人山岳会の合同遠征隊に参加。目標は未登の北峰を経由して主峰の第3登を目指したが、鋭いナイフリッジに阻まれてルートは延びず、40日間ほど粘ったものの僅か5600m地点で断念。シェルパレスで挑んだ登山だったが、あまり力を出し切れないままの失敗登山だった。メンバーの情熱は高かったものの、地方ならではの情報量不足と経験の無さを露呈してしまい、殆ど歯が立たなかったことの落胆も大きかった。

 ランタン谷トレッキング
 ■1975年 11月30日〜12月13日  佐々木 松島 坂野 

 失敗に終わった遠征隊はカトマンズ解散となり、現地に居残った3名でネパールのトレッキングを行った。ランタン谷には2年前ランタンり峰(7205m)で消息不明となった、故今泉氏の追悼ケルンが有り、お線香と酒を携えてカトマンズを出発した。シェルパもポーターも雇わない気ままな旅で、ランシサリまでの始めてのトレッキングだったが、敗退登山のうっぷんを晴らすような楽しいトレッキングで、この先調子付いてしまって8ヶ月間程を放浪生活する羽目になる。
 
 東ネパール〜クンブ地方トレッキング
 ■1975年 12月19日〜1976年 2月8日  佐々木 松島 戸部 村上 坂野 
 
 ネパールのチムリンタールに飛行機で飛び、マカルーBC方面を目指したが雪のシンプトン峠で挫折し、その後は西に向かってクンブ地方を目指した。ナムチェバザールではシェルパのサーダーの家ではさんざん厄介になり、ここをベースにエベレスト、ローツェ、チョオユー方面を歩き廻り、厳冬期で殆ど人のいない静かなトレッキングを満喫した。帰路はルクラからの飛行機代がもったいなく思い、さらに旧エベレスト街道を10日間歩いてカトマンズに帰着した。
 今となっては実に悠長な長旅だったが、その当時トレッキングエージェントなどは無く、シェルパ1人、ポーター2人の行き当たりばったりの気ままな旅だった。食料は殆ど現地調達だったが何も不自由は無く、民家に頼み込んで泊まり歩いた日も思い出深い。当時はタンボチェの儲けの強い坊主意外はまだ素朴な人々が殆どで、旅人には優しく楽しい思い出ばかりだった。

 カラコルム チョゴルンマ方面トレッキング
 ■1976年 5月26日〜6月5日  佐々木 坂野
 ネパールを後にし、インド〜バングラデッシュ〜アフガニスタンを放浪の後再度パキスタンに入り、最後の仕上げとしてスカルドに向かい、スパンティークを下見にチョゴルンマ氷河を目指した。しかしネパール、インドと違って現地の食料事情は極めて悪く、現地調達だよりの我々には辛い日々の連続だった。金が無くてジープのチャーターも出来ず、炎天下の砂漠を歩く日々は今でも忘れられない。結局2人とも体調を崩して目的を果たす事は出来なかったが、その時は既に永い放浪生活で体もボロボロになっていた。

 トリスル1峰(7120m) 西壁 ユーゴスラビアルート (第2登)
 ■1981年 8月16日〜10月18日 登山隊員 7名 
 隊員の構成は単一の山岳会のメンバーだったが、寄付などには殆ど頼らなかった為極めてビンボーな登山隊だった。今では現地での手続きはエージェント任せだろうが、当時はトランシーバーの手続き以外の通関・IMFとの交渉・物資の調達その他は全て自前で行った。取り越し苦労も多くて時間もかかったが、終わってみれば登頂も出来て充実感を感じる良き思い出だった。
 しかし、この年のインドヒマラヤは稀に見る悪天候で、このポストモンスーンだけでも日本人15名が遭難死するという異常事態で、事故やトラブルが無かった我々にはよほど幸運が味方したのだろう。

 イエティの噂話
 ■1975年 10月27日 アンナプルナサウス(7219m)登山ルート C2付近 
  
 アンナプルナサウス登山ルートのC2(5200m)付近で発見した足跡の様な物。両側が切れ落ちた尾根上に残る跡はイエティを連想させる光景だった。 この登山期間中、C2付近(5200m)の斜面で動物のような足跡を発見し、当時の河北新報には「イエティの足跡」として報道された。最近になって思うとこれは雪豹の足跡ではなかったかとも考えたが、ある事情通の方に聞いた所雪豹の足型はこれとも異なる模様です。

 なお、美しいは毛皮ヒョウの仲間の中でも特に希少価値が高いため、1960 年代には密猟が相次ぎ、その数は一時1000 頭にまで減少したとされる。しかし近年の保護活動の甲斐あってか、個体数は5000 程度にまで回復した。現在、他の大型ネコ類と同様にに絶滅危惧種に指定され、保護の対象となっている。夏は森林限界より上の高度6000 m 付近の高原や高山で過ごし、冬になると獲物を求めて2000 m 程度の森林地帯まで降りてくる。

 チベット、ネパールにも生息しているが、今でも地元の人にも姿を見せない謎めいた希少動物のようです。雪豹は現地人にも殆ど目撃される事無い幻の希少動物だが、イエティのヒグマ説以外に雪豹とする説はあまり無い様です。


 ヒマラヤ歩きの気ままな旅日誌 (ネパール〜インド〜パキスタン〜アフガニスタン)
 ■1975年 11月30日〜1976年7月8日
1975年
11月30日 ランタン谷トレッキングのためカトマンズ出発 (ランタン部落〜ランシサまで)
12月13日 カトマンズに帰着
   19日 東ネパール チムリンタールへ出発 (飛行機)
   26日 マカルー方面のシンプトンを峠往復
1976年
1月4日 ルンフォア〜スルケラ峠(3090m)〜カルテ(旧エベレスト街道)
  9日 ナムチェバザール (サーダー ペンバ・ノルブの家で居候暮らし)
  13日 チョオユー方面のゴーキョ往復
  14日 ナムチェバザール (サーダーの家で居候暮らし)
  22日 エヴレストBC方面のカラパタの丘を往復
  26日 ローツェBC方面のチュクンを往復
  27日 ナムチェバザールに帰着
  29日 ナムチェバザール〜ルクラ (飛行機代をけっちって10日間の歩きとなる)
2月3日 トードン〜ラムサンゴ〜カトマンズ帰着 (旧エヴェレスト街道)
  20日 インドへ向けてカトマンズをバスで出発
  24日 ラクソールから列車を乗り継いでカルカッタに到着 
  29日 ダージリンを目指して列車でカルカッタを出発
3月1日 トイトレンを乗り継いでダージリンに到着
  7日 東インド方面へ向けてダージリンを出発 (列車)
  9日 カジランガ到着 (動物公園などで遊んでリラックス ベンガルタイガーは必見)
  15日 カジランガ〜ディブルガール〜シーロン (バス)
  19日 インド〜バングラデシュの国境シルへットに到着
  20日 シルへット〜ダッカ(バングラデッシュ) (オート力車)
バングラデッシュ側で入国拒否に遭うが、インド側から圧力を掛けてもらい入国。
  28日 ダッカ〜カルカッタ (陸路通過のビザが下りず断念して飛行機)
4月2日 カルカッタ〜ブダガヤ (仏陀の瞑想地で日本山妙法寺に居候)
  7日 ラクソール〜カトマンズ帰着 (バス)
  13日 カトマンズ〜ポカラ (バス)
  17日 ポカラ〜インド国境〜デリー (バス〜列車)
  23日 デリー〜ハルドワル  ガンゴトリ山群方面へ向けデリーを出発 (バス)
  24日 リシケシ〜ジョシマート
  30日 スライチョタ〜パウリ
5月2日 リシケシ〜デリー帰着
  5日 デリー〜アムリツァー〜ラホール〜カイバル峠〜ラワルピンジ  (バス)
  11日 ラワルピンディ〜ペシャワール アフガニスタンを目指して出発 (バス)
  14日 ペシャワール〜カブール (バス)  (あまりの快適生活で長居してしまう)
  20日 カブール〜ペシャワール (バス)
  23日 ラワルピンディ〜スカルド(飛行機) チョゴルンマ氷河方面トレッキングの為。
  26日 スカルド出発 (ジープをチャーター出来ずに辛い炎天下の砂漠地帯歩き)
6月3日 スパンティーク峰方面のチョーブランサ往復
  5日 スカルドに帰着
  6日 スカルド〜ラワルピンディ (飛行機)
  17日 ラワルピンディ〜ラホール〜カイバル峠〜アムリツァー〜デリー (バス〜列車)
カイバル峠ではシチズンの時計と拳銃を交換しろと言われる。
  26日 デリー〜ラクノー〜ポカラ〜カトマンズ 
デリー〜ポカラ間のバス運転手は一人だけで、20時間殆どノンストップ運転は恐怖だった。
7月12日 カトマンズ〜バンコック〜羽田 (帰国)