トリスルT峰西壁(7120m)登頂

仙台山岳会ガルワールヒマラヤ登山隊 1981

〜はじめに〜

私達はインドヒマラヤのガルワール山群に登山隊を出すに当り、第1希望のドウナギリ(7066m)では最後に残されたバリエーションルートである、東壁、そして第二希望は初登ルートとしてトリスル1峰では唯一残された東稜に的をしぼり登山申請を出しておいた。しかし結果として双方とも既に他の登山隊が同じアプローチルートに入ることが判明し、計画は二転三転してトリスルT峰西壁の許可を取得した。

 トリスル1峰はインドのガルワール山群の東部にあり、トリスルとナンダデビィ両氷河の源頭に位置して山頂から北に伸びる尾根がナンダデビィ内院の西の障壁を形成している。南面からの山容は鋭鋒であるが、北からは牛が寝そべったような形に見える。西面は高度差2500mの氷雪壁となってナンダキニ氷河に切れ落ちている。この山塊にはT峰のほかにU峰(6690m)、V峰(6008m)がある。「トリスル」とは「三叉の鉾」の意味で、南面から眺めるとT峰 U峰 V峰が三の鉾に見えることから命名された、ナンダの女神を守る山であると言われている。

 1907年イギリス隊(TGロングスタッフ隊長)がリシガンガを詰め、北稜にルートを取って612日に初登頂をした。ヒマラヤで最も早く登頂された7000m峰であり、それまで人間が達した最高高度であった。37年にP.Rオリバーは単独でトリスル氷河から第2登を果たした。 55年にインド隊(Gシン隊長)が第3登した。

 75年の西ドイツ隊とインド隊は登頂後頂上からのスキー滑降に成功。60年にユーゴスラビア隊はU峰と3峰のコルの最終キャンプから615日にU峰、17日にV峰にそれぞれ初登頂した。ユーゴスラビア隊は765月にも未登の西壁ルートから1峰に登頂した。その後トリスルは比較的容易に登頂できる7000m峰として人気が高く、多くの登山者を迎えている。

 日本隊ではノーマルルート以外で78年長崎岳連隊が西壁ルートを目指したが、6100mの氷雪壁地点で断念している。805月、日本ヒマラヤ協会隊がトリスル西壁の反対側に当たるトリスル氷河の源頭部から、南稜に抜ける新ルートより1峰に登頂している。この隊の登頂隊員には仙台山岳会会員の八嶋 寛隊員も含まれている。

トリスル西壁ルートは19765月、ユーゴスラビア隊によって初登されているが、其の後長崎岳連隊、イタリア隊、イギリス隊、などが再登を目指したものの、いずれもトリスル1峰南稜までの急峻な氷雪壁に阻まれて敗退している。長崎岳連トリスル隊、および信州大学ナンダクンディ登山隊の資料を慎重に検討した結果、当初からの新ルートからの登頂という目的からは外れるが、トリスル1峰西壁の美しい氷雪のルートも捨てがたく、ユーゴスラビア隊ルートとの結論に到った。

ドウナギリからトリスル1峰へ、現地エージェントのシカール社クマール氏への国際電話のやり取りの後、198127日、正式な登山許可が届いた。許可証を手にしてからの準備は実にあわただしかった。ルートの概要は過去の登山隊が残した記録などでほぼ掌握できる為、いかに最小の労力と物資、それに少ない予算で攻略できるかといったところが最大の感心事となった。

6月に入ってからは連日連夜のミーティング、梱包作業に入り、徹底した合理化と軽量化を計った結果、食糧60kg、装備190kg、梱包材35kg、計285kgの別送品にまとめ上げ、81日日通航空仙台支店に託した。インドへの登山隊には頭痛の種ともいえるが、登山ビザのトラブルも例外ではなく、再三のやりとりの後、かろうじて先発の荒井が成田を出発する前日の810日に受領し、811日あわただしく成田を出発。本隊は8156名が成田を発ってデリーへと向かった。

          登山隊事務所の木皿邸はプレハブで暑くて蒸れる

〜隊の編成〜

隊長 坂野(27)  医療 大山(29)  装備 二瓶(24)  渉外 荒井(24)  記録 高橋(24)  食糧 加藤( 23)  輸送 三浦(26) リエゾンオフィサー リシ・シャルマ(30

留守本部 佐藤

 〜アプローチ〜

816日夜、 まるでモンスーンあけを思わせる酷暑のデリー空港に本隊6名が到着。宿泊地のホテルは場所の良さと値段の安さで選んだ、デリーの中心地に位置するYMCAホテルだが、この酷暑の中エアコンの無い部屋で過ごすのはさすがに厳しい。暑くてどうしようもなくなると、頭からシャワーを浴びてそのまま濡れたままベッドに横たわり、天井の扇風機を全開にして涼む。この瞬間はなかなか快適だが、しかし15分もすると体から頭まですっかり乾いてしまい、またもとの焦熱地獄に戻ってしまう。翌日から先発の荒井と合流し、諸手続き、食糧、装備、燃料等の買出しを開始。全員でIMF(インド登山協会)・シカール社、バザールへと駆け廻る。シカール社に予め手配しておいた通関、トランシーバーの受け取りは実にスムーズに運び、登山隊はさい先の良いスタートを切ったかに思えた。

 しかし、予期せぬ出来事が起こった。821日にリエゾンがデリーに到着するつもりでいたが、アプリケーションの登山開始日をめぐってIMFクリショナン氏との解釈の相異が生じ、リエゾンのデリー到着は大幅に遅れ、830日になる公算が強くなった。連日シカール社、IMFに足を運び早期解決を交渉したが、我々の英語力をしては説得力に乏しくずるずるとむなし日々は過ぎ去った。IMFを通じて手紙と電報を出したものの確たる返事は得られず、やむを得ず坂野と三浦の二人をデリーに残し、他5名はキャラバン出発地のガートに向け出発させるとの強行策に到る。

デリーでの準備はトランシーバーの受領以外はシカール社とは契約せずそのほか全て我々の力で行った。そのため思わぬ取り越し苦労も多かったが、822日。ホテルでの徹夜の梱包作業を終了した。

          

ニューデリーのマーケットでの買出し。

8月23日 、早朝、デリーに住むインド人の知人の紹介を受けたマイクロバスをチャーター。エアコンも無く、うだるような暑いホテルで徹夜での梱包作業を終了させ、隊荷を満載し隊員5名を載せて一路リシケシに向けホテルを後にした。あまりの疲労と睡眠不足のため、車が出発するなりみんな泥のように眠りこけてしまった。途中ヒンズー教徒が多数巡礼に訪れるハルドワルを経由して、8時間ほどでリシケシに到着して快適なリバーサイドホテルに到着。翌日、マイクロバスは重量オーバーの為、3分の1の隊荷をローカルバスに積み替えて出発。リシケシからガンジス河源流沿いに急なカーブ道を8時間ほど走り、ナンダプラヤグのガバメントハウスに入る。ここからキャラバンスタート地点のガートまではローカルバスで2時間ほどの距離だが、リエゾンの到着を待って8月28日まで滞在とする。

ナンダプラヤグはガンジス河の支流ナンダキニ河の谷間に位置する、小さな郵便局とポリスがあるだけの緑豊かな小さな村。しかしデリーでのうんざりするような騒々しさと酷暑から開放され、久しぶりに心身とも休まる思いであった。しかし2日もすると全員暇になり、近くの原っぱで近所の子供を交えながらサッカーで気晴らしという毎日であった。

〜キャラバン開始〜

828、デリーに残留した坂野からの連絡が入らないので、かねてからの打ち合わせどおり、リエゾン不在のままキャラバンを先行させることに決定する。ガートへはローカルバスの屋根に全ての隊荷を積み込んで出発。バスはナンダキニ河左岸をジグザグに進んでゆくが、緑が深く、ちょうど飯豊連邦の温見平に行く道路を走っているようで、あまりインドを感じさせない。なにか心の休まる思いがする。



キャラバンスタート地点のガート部落。

ガート到着すると、土地の長老チャンラルが尋ねてきてポーターとの交渉に入る。ガートからベースキャンプまでは5日間と考えていたが、彼は7日間との主張で譲らず、結局ポーター34名、キャラバン7日間、日当25ルピーで一致を見る。ここでコック兼ガイド役のクマールシンを雇う。彼はマナリの登山学校の出身らしく、トリスル、ナンダデビィ(7816m)などの日本隊にも参加しているようである。

8月29日 、ストールからきたポーターに荷物を分けいよいよガートを出発する。キャラバンはナンダキニ谷沿いの緩やかな道を進むが、ローカルポーターは休みが多く時間のかかることおびただしい。8月31日最終部落のストールに到着。ここはローカルポ-ターに出身地である為、翌日の朝になってもなかなか出発しようとしない。ここでポーターのボスが1日30ルピーを要求してきて彼らのストライキが始まる。我々は全く無視する態度で昼までの根比べが続いたが、ようやく午後彼らはあきらめた様子でまた歩き始めた。

キャラバンルートは4日目のラセコプリから踏み後程度になり、うっそうとしたナンダキニ谷の樹林帯を進んでゆく。ラセコプリからはナンダニ谷同士に初めてトリスル東面がガスに切れ目から姿を見せた。1峰から2峰、3峰へと続く稜線は意外と大きく、また西面ははかなり切れ落ちているように見える。ようやくヒマラヤにやって来たという実感が込み上げてきた。

9月3日、チャンドルニガットに到着。途中4時間ほどかけて丸木橋をかけ、ナンダキニ河をはじめて右岸に渡るここから谷は大きく開け、トリスル1峰西壁の下部岩壁からのモレーンの押し出しが眺められるようになる。BCまでは更に高度差700mほどサイドモレーンを登り詰め、9月4日、標高4430mユーゴスラビア隊ベースキャンプ跡にBCを設ける。ここで7日間分の賃金を払いハイポーター2人を残して全員を解雇した。BCはトリスル西壁と対岸のナンダクンディ峰をはさんだ谷のサイドモレーン上に位置し、トリスル1峰、2峰、3峰、と眺望に恵まれたかなりの絶好の地である。



ラセコプリよりトリスル西面を望む。

〜登山活動開始〜

9月5日、 BCよりサイドモレーン上を4,700m地点まで上がり、全員のコンディションを確認しながら、翌日46日より登山開始。BC着後1度チャンドルニガットまで降りて宿泊した為か、その後隊員の順応はすこぶる順調で、96日にはいっきに5人でC1予定地までの荷揚を行う。

BCからC1まではトリスル1峰と対岸のナンダクンディ峰(6309m)にはさまれたナンダキニ河源頭沿いのガレ場を進み、更に左岸の急なガリーに取り付く。トリスル1峰西壁下部岩壁に食い込むこのガリーを登り詰め、最後の50mにフィックスザイルを張ってC1予定地(5150m)の広大なロンティ氷河に抜け出る。ロンティ氷河上よりトリスル1峰西壁の全貌が姿をあらわし、巨大な正面壁が我々を圧倒しそうであった。

我々の目指すルートはこの急峻な正面壁を避け、正面壁右側の氷雪のリッジに取り付き、頂上稜線のトリスル1峰南稜に抜け出るルートである。このリッジの取り付き点まではロンティー氷河を源頭まで上り詰め、更に急な雪壁を突破して核心部攻略の前線基地となるC2を設置する。ここから上部は5060度ほどの氷雪の壁が連続し、途中C3を設置してこのルートの核心部を突破し南稜に抜ける。その先の南稜はダイナミックな雪稜が我々をトリスル1峰の頂上に導いてくれるはずである。C1予定地ではほとんどの隊員が頭痛を感じたが、BC着後にほとんど回復してしまい、登山は思ったより順調なスタートを切った。

 97、 坂野、三浦がリエゾンを連れてBC到着。デリーで別れてから実に17日ぶりに全員終結したことになる。リエゾンは急遽予定が変わり、先にムリットニー隊に決定していたインド陸軍大佐のリシ、シャルマ氏がピンチヒッターとして起用されていた。まだ30歳前後と思われるが、いかにもエリートという雰囲気だがあまり偉ぶったところも無く庶民的なところもあり、なかなかフレンドリーな感じでひとまずは安心した。

 遅れてBC入りした坂野、三浦、そして順応が遅れ気味の高橋の3人は上部4,700mまで順応活動の後、99C1への荷揚を開始する。荒井、二瓶、そして加藤、大山の4名はルート工作と荷揚の2パーティに分かれてBCを出発C1への荷揚を行いテントを設営。当初当てにしていたコックのクマールシンは風邪のためにダウン、他2名のポーターもBCでの雑用のみということで役に立たず、一切の荷揚は隊員のみとなってしまう。BC入りした坂野、三浦はBC上部4900mまでモレーンを登り高度順化を行い、他は休養とする。

       BCのキッチンテント。西壁の下部岩壁直下でトリスル2峰、
3峰を望む快適なキャンプ地。

9月9日、 荒井、二瓶、大山、加藤、の4名でC1から上部のロンティ氷河のルート工作に向かう。広大な氷河上は無数のクレバスが横に走り、まるで迷路のようで複雑なパズルのようだ。その上をモンスーン後の降雪に覆われている為迂回ルートが続き、行ったり戻ったりの繰り返しでなかなか先に伸びない。天候は午前11時頃までは晴天、その後は決まってガスに覆われ午後から風雪となる。

午前中は静かな正面壁だが、午後になると日が当たって雪崩と落石が頻発し、ちょうど頭上から攻撃を受けそうで少し緊張する。C2へのルート工作は連日の風雪で視界を失い、ズタズタに切れたロンティ氷河上のクレバスに阻まれ疲労ぎみであった。3日間のルート工作でロンティ氷河を突破し、最後の急峻な雪壁に取り掛かるが、予想以上に雪の量が多く、この傾斜では体力の消耗が激しい。

9月12日、 西壁取り付き地点(5900m)に到着し、C2予定地とする。この先は一直線に急峻な氷雪のリッジをたどり、頂上稜線の南稜を目指してトリスル西壁を突破する。ここから見ると西壁の下部岩壁はC2より1500m程切れ落ちて、いかにもヒマラヤらしいビックな高度感を感じる。ここでてトリスル1峰の頂上稜線が確認できて、目指すピークが初めて我々の前に姿を現した。ルートの全貌が把握できピークが見え始めると、いきなり頂上は手を伸ばせばすぐ届きそうな目前の距離に感じられた。

   

 ロンティ氷河をC2に向けて荷揚する。   C2上部核心部の取り付き地点。荒井、二瓶。

9月13日、全員BCまでいったん降りて休養とする。ここまでは計画上の第1ステップといえるが、比較的全員の高所順応も良く、比較的順調な滑り出しであった。しかし久しぶりの全員休養と決め込んだのもつかの間、ここでキャラバンから風邪ぎみのリエゾンがBCでいっきに様態が悪化して、39.4℃の高熱を出して突然に錯乱状態となり暴れてしまい、とても手が付けられないような事態になる。

ついには興奮してまる裸になり、テントそばの氷河の水溜りに飛び込んでしまい、意識不明の状態になり全員がパニック状態となってしまう。慌ててリエゾンを水の中から引き上げ、テント内をホエブスで全開にしてあっため、体中をマサージしてシュラに寝かせる。大変なことになり我々も動揺してしまうが、処置の方法はBCより速やかにおろすしか無く、翌日リエゾンをポーター3名総動員してガートまで担ぎ下ろすことにする。

〜西壁核心部の攻略〜

9月14日、リエゾンの件で満足な休養も取れないまま再び全員でBCを出発。C1、C2へポーターの荷揚が期待できなくなったので、全隊員でパーティーを二分して4日間の荷揚に向かう。特にロンティ氷河最上部の急な雪壁は雪が深く、体力の消耗が激しい。雪崩の可能性が高く感じられ、午後の降雪時には特に慎重を要す。

C2への荷揚に引続き、荒井、二瓶、加藤の3名はいよいよ西壁のルート工作に取り掛かる。C2からは今までとはルートが一変し、傾斜50~60度の氷雪壁が連続してトリスル1峰南稜まで続いている。ルートは氷のリッジどうしに採られ、スノーバーを叩き込みながらフィックスロープをベタ張りにしてゆく。我々のルートは1976年の長崎岳連隊とは異なり、右側よりリッジどうしにブルーアイスをダブルアックスでダイレクトにたどり、2日間のルート工作で6100m地点まで達する。

ここからの高度感は実にすばらしく、足元から下の下部岩壁は2500mほどナンダキニ氷河に切れ落ちている。ここで全員休養の為BCまで下山する。

  

C2から西壁正面を望む。        C2上部核心部の氷雪壁

9月20日、 1日の休養で体を休め、 西壁核心部の攻略とC3C4の建設を目指してBCを出発する。全員が食糧、装備、フィックスロープをザックに詰め込み、C1,C2への荷揚を目指して急なモレーンを重荷にあえぎながら黙々と登る。午前中は11時頃まで晴天だが、その後は決まって風雪というパターンが続き、ルート工作はいつも悪天候時になってしまう。

9月22日、 二瓶、坂野、荒井、三浦の4名は、C2上部の氷壁にルートを伸ばし、6330mに達して氷稜のギャップにC3を設営する。ここよりトリスル1峰のピークと、2峰、3峰に続く南稜がはっきり確認できる。C3から上部のルートはアイスリッジをダイレクトのたどり、大きな露岩を右から巻いて登ると傾斜が落ちて広い雪壁となる。南稜に抜ける手前の雪壁にC4を設営し、ここからいっきに頂上を目指す。トリスル1峰とナンダキニ氷河をはさんで対座するナンダクンディ峰もようやく我々の眼下になり、ピークはすぐ手の届きそうな所に思えた。

ここまでのところ隊員の高所順応は比較的順調に進みこれといったトラブルも無いが、ポーターなしで隊員のみの荷上の為にかなり疲労が溜まり、各隊員の体力差がはっきり出てしまう。過去に一度ヒマラヤ経験のある坂野、荒井、そしてもともと体力的には最も当てに出来るの二瓶、三浦が主にルート工作を行う。



      C2上部核心部の氷雪壁。三浦。

9月23日、 朝から風雪だが荒井、二瓶の2名がC4に向けてアイスリッジのルート工作の為C3を出発。しかし激しくなる風雪の為2ピッチだけルートを延ばしたのみで断念。上部は堅いアイスリッジに重い雪がへばり付いており、思い切りアイゼンを蹴りこんでもいっこうに決まらず踏ん張りが利かないとりあえずC3まで退却して天候の回復を待つ。また荷上パーティーはC3からC2へのアップザイレンの最中小規模な雪板雪崩が発生し、坂野がフィックスロープにぶら下がるという状態で、天候は明らかに急変していた。

坂野,三浦の2人はC2に戻ったものの、ルート工作から戻った二瓶,荒井の2人は激しい風雪の為C3から動けなくなってしまい,お互いに丸2日間テントに閉じ込められてしまった。

925、ようやく天候の回復の兆しが見え出したので,荒井,二瓶がC3を出発してルート工作に向かうが、アイスリッジ上にフィックスロープを5本伸ばしただけで時間切れとなる。ここで荷上をしながら登ってきた坂野,三浦がルート工作をバトンタッチしてC3に入る。

926,一段と寒気の厳しくなったC3を坂野、三浦の2名が出発。最高到達点から先は大きな露岩がルートを阻み,右側を大きく回りこむと傾斜は緩やかになって,上部トリスル1峰南稜に向かって広い雪壁が続いていた。どうやらここで西壁の核心部は突破したようだ。更に上部雪壁にフィックスロープを伸ばしたが10時頃からガスに覆われ、午後から天候は急変して激しい風雪となり,視界を失ってついに断念。4本のフィックスロープを設置して大急ぎでC3までアップザイレンで下降する。

9月27日 C4予定地までのルート工作を目指し、坂野、三浦がC3を出発。大きな露岩より先の傾斜の落ちた雪壁にフィックス8本を設置。午後から風雪が激しくなり6850m地点で引き返すと、C3は大雪の為にすっかり雪に埋もれていた。

9月28日 天候悪化の為予定していたC4の設営を断念し、撤退の為には激しい風雪で埋もれたC3を出発し、C2に向けてのアプザンを繰り返す。C2で我々の為に待機していた大山、二瓶、荒井、と合流し5名で一気にBCまで下山と決定する。しかし激しい降雪の中C2よりトレールの消えた雪壁をただ黙々と進むが、次第に腰までのラッセルとなりいっこうにペースがはかどらない。今までの天候とは明らかに違い、ちょうど飯豊連邦の冬に豪雪で閉じ込められた時のような激しい雪であった。

やがて視界が広がり周りを見回すと、我々が降りてきたC2直下の急な雪壁は、幅400m、長さ600m程の実に広大なデブリで我々のルートは埋もれていた。どうやら雪崩れてから直後の模様で、タイミングが少しでもずれていたら我々全員が雪崩に飲み込まれていたかもしれない。全員あせる気持ちを抑え、再び視界の無くなった広大なプラトーの中で、アンザイレンしながらの悪戦苦闘が続く。C2からC1までいつもの3倍の時間をかけて到着し、C1で待機していた高橋、加藤と合流して全員フラフラになりながら800PMBCにたどり着いた。

ここBCで充分な休養をとりたいとこだが、既にほとんどの装備、食糧を使い果たし、寒気と風が強まり残された日数は少ない。既にフィックスは6850mまで伸びており、頂上までは充分すぎるくらいの射程距離にある。

   

       C3上部の氷壁。二瓶    C3直下からナンダキニ谷を見下ろす。

929日 全員BCにて休養日。大雪の為BC付近でも積雪が多い。翌日からのアタック計画を決定し、アタック隊4名、坂野、二瓶、荒井、三浦とする。サポート隊は大山、高橋、加藤の3名。サポートのメンバーには申し訳ないがアタックは一回のみの為、高所順応の良いメンバーを優先させる事にする。ゆっくり休みたいのもつかの間、再びBCに上がってきたリエゾンの様態が悪化して発熱し、危険な常態になってきた。BCで雑用をしていたポーター3名を総動員し、再びリエゾンを抱えながらガートに降ろすことにする。

〜頂上アタック〜

10月1日 1日のみの休養では疲れも取れないが、アタック隊4名、坂野、二瓶、荒井、三浦の4名が頂上を目指しBCを出発する。C1を経由し、大雪ですっかり雪で埋まったフィックスロープを掘り起こしながら、辛いラッセルの連続でようやく雪で埋もれたC2に到着する。サポート隊、大山、高橋、加藤の3名もC1に入った。

10月2日、装備、食糧、で膨れ上がったザックを背負い、頂上を目指してC2をアタック隊が出発。4名ともに高所順応は大変良く快適なペースでC3に到着。ここで更にアッタックテント、装備、食糧をもって上部に向かう。あまりの重量の為ここでいきなりペースが落ちてしまい、あえぐようにしてフィックスロープにユマールでぶら下がりながら最高到達点にたどり着く。

既にそのときは夕暮れとなり、風雪が強まり寒気が一段と厳しくなってきた。疲れた体に鞭を打ち、斜面の雪を削り取り4人用のエスパースをやっとのことで設営し、テントの中になだれ込んだ。全員が風雪から逃れるようにして、全身雪まみれになりながらテントの中に入った。実に寒い。今まで日本の山では経験したことの無いような寒さだ。サポート隊3名大山、高橋、加藤はC1から荷揚げしてC2に入った。

トリスル南稜の2峰、3峰を見下ろす。

10月3日、あまりの強風でテントごとトリスル東面に吹き飛ばされそうで、まんじりとも出来ない夜だったがアッタクを決行する。2時頃には目を覚ましたが、あまりの風の強さと寒気の為、しばらく様子を見る。ようやく風が少し弱くなった800AMになってC4を出発する。

風は強烈でザイルが宙を舞っているような状況だが晴天だ。既に我々はトリスル1峰の南稜上にいることがはじめて確認された。南稜に飛び出した所は6850mコルの地点で、そこから南稜は美しいスカイラインを描いて頂上せり上がっている。南稜からはトリスル2峰(6690m)、3峰(6008m)と長い稜線が続く。ムリットニーの俊峰もすばらしい。南稜は適当にクラストしており、アイゼン爪の感触も気持ちが良い。



               核心部を抜けて南稜を目指す。

二人づつアンザイレンし、鋭く切れ落ちた東面に張り出した大きな雪庇に注意しながら南稜を進む。今まで常に目の前にあった対岸のナンダクンディ(6309m)もはるか眼下になり、トリスル1峰南壁がまぶしく輝き頂上は目の前に迫ってくる。途中3ピッチの雪壁を乗り越え稜線を行くと、稜線はだんだん広まり傾斜も落ちて雪原のようになる。

11時6分、トリスル1峰(7120m)の頂上に立つ。頂上は3つの大きなコブ上のピークになっており、手前のピークが最も高いと思われた。ここまで登って南稜の反対側から初めてナンダデビィ(7816m)の美しい双児峰が突然姿を現し、巨大な双児峰が我々の目に飛び込んできた。あまりの美しさに思わず目を奪われてしまう。またトリスル1峰にあまりにも近いので驚いてしまう。はるか北方には抜きん出た高さを誇るカメット(7756m)の雄姿も認められた。

寒気が厳しい為かオリンパスの一眼レフは作動せずダダのお荷物になってしまい、8mmカメラも動きが悪く失敗の連続であったが、1時間程頂上にとどまり簡単な儀式を済ませ12時に下降を開始した。そのままC4C3のテントを撤収し、連続するアップザイレンを繰り返しながらC2まで一気に下山を完了した。

トリスル1峰西壁ルートより第2登。後ろはナンダデビィの双子峰

10月4日、C1よりサポートで上がってきた大山、加藤とC2で合流し、装備、食糧の整理を行った後、高橋の待つC1に下山。そのまま膨大な荷物で膨れあがったザックを背負って、全員無事にBCまで戻った。BCで待つコック、ポーターを含めて堅い握手をして、登山の無事成功を喜び合った。

               夕食のスープを作る為火縄銃で鳩を狙う。

〜終わりに〜   

このような形で私たちのトリスル1峰登頂に成功し、幸にも事故も無ければこれといったトラブルも無く日本に帰ることが出来た。一人あたり50万円ほどの負担金で、準備期間も1年と短く、きわめてコンパクトに登山を終了しえたことはまことに幸運であったことの一語に尽きる。

 しかし、凡人の集まりがひとつの結論を出し、その計画を実践してゆくということは普段の国内の山行と違った、予想以上に大変なエネルギーを必要とする。単一山岳会の気安さとはいえ、ヒマラヤ経験者が少ない地方の山岳会では研究、準備、諸手続き、そして資金等、すべて気の遠くなるような諸問題に思えた。出発が近づくにつれ連日連夜の準備活動に終われ、あせる気持ちとともに期待と不安が重圧となって感じられたが、しかし我々にとっては毎日が充実した毎日でもあった。出発直前ぎりぎりにビザを受け取り、酷暑のデリーへと成田から飛び立ったときの喜びは他にたとえようが無かった。

 単一山岳会とはいえ、大山、坂野を除けば会暦も1〜2年と浅く、心配される向きもあったが、われこそはと熱くなる者も無く、チームワークは好ましいものであった。また今回のトリスル1峰登山は、ヒマラヤ登山の非常な厳しい現実を我々に突きつけらことも忘れてはならない。今回のポストモンスーンにインド、ガルワールヒマラヤで登山を行った多くの日本登山隊に遭難が多発し、なんとこの1年のインドヒマラヤ全体で日本人登山隊5隊,15名もの犠牲者がでてしまった。延べ日本人隊員が19隊、約110名ほどだったことを考えると、あまりにも高い事故率である。

 特に、我々が登ったトリスル1峰から東にわずか20kmの距離にあるナンダカート(6611m)に登山中の日本ヒマラヤ協会隊は、ピンダリ氷河上6000mの第3キャンプで雪崩に遭遇し、キャンプにいた7名全員が瞬時のうちに遭難死するという大事故が発生した。事故の遭った日はちょうど悪天候でC2、C3に閉じ込められ下降中に雪崩に遭遇しそうになったときと一致する

今回はトリスル西壁、ユーゴスラビアルートの第2登となるが、幸運にも我々は隊員4名の登頂に成功し、この悪天候にもかかわらず無事故で全員日本に帰ることが出来た事に、改めて考え深いものがある。

 最後に、このトリスル1峰登山の計画に寄せられた多くの諸先輩、会員、ご家族の皆様の、ご理解、協力と励ましに心からの謝意を表しこの報告を終わりたい。

                                       文責    坂野

トリスルT峰 西壁 ユーゴスラビアルート


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